礒崎神社(いそざきじんじゃ)は 養老3年(719)僧 行基が神勅を蒙つて 上道山の岩崎山麓〈現 岩崎神社の社地〉に創祀 寶龜六年(775)上道山から現今の地に遷座『延喜式〔927年〕』には播磨國 賀茂郡 崇健神社(たかたけの かみのやしろ)と称したが 後に宇佐八幡を勧請し 礒崎八幡と改稱したのではなかと推測されています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
礒崎神社(Isozaki shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県加西市下道山町559-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
《配》應神天皇(おうじんてんのう)
比賣大神(ひめのおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
創建当時から 朝廷からの勅使が遣わされた数少ない神社の一つで 平安時代には雨乞いの神様として広く知られていました
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由 緒
養老3年(719)、創立。
養老4年(720)、宇佐八幡宮より応神天皇を勧請。延喜式の賀茂郡崇健神社は当社である。
江戸時代、領主浅野又市郎より黒印料20石を寄付。
明治7年(1874)、村社に列せられる。2008 兵庫県神社HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6313125.html
【由 緒 (History)】
『加西郡誌 : 御大典紀念』昭和4年に記される内容
【抜粋意訳】
神社
磯崎神社(村社)西在田村下道山字祟礒
祭神 田心姫命 湍津姫命 市杵嶋姫命 應神天皇 比賣大神
祭日 例祭五月十五日 古例祭十月十七日(明治四十三年迄は陰曆九月八日九日)
當神社は最初 上道山の岩崎山麓にあつて俗に「岩崎神社」と稱したものである。
由緒として『當神社は養老三年五月、僧行基が神勅を蒙つて創祀した。その翌年(養老四年二月)豊前宇佐郡 宇佐神社より八幡大神を勧請し磯崎八幡宮と稱した』と博へて居る。
だが、これを全部信じることはできない。宇佐宮の起原を見るに『元明天皇 和銅五年始めて鷹宮瀬宮を建てて 其後 小山田社に遷し、元正天皇 養老四年 大神諸男等始めて菱形池の薦を刈て枕を造り、神興に載せて御體に准ふ、聖武天皇 神龜四年神宮を菱形山(一名小倉)に造り、因て廣幡八幡大神宮」名づく』とあり叉一説には『神龜元年 神宮を小倉山に建て』とある。
何れにしても宇佐宮ができ八幡大神宮と稱したのは神龜年代である。然るにその以前の養老四年二月に『宇佐宮から八幡大神を勧請』したと云ふのは疑はしい(宇佐託宣集に欽明天皇の御代、大神比義に託りて、我は譽田天皇 廣幡八幡麿なり、我名を護國霊驗威力神通大自在王菩薩と教給ひき云々の事は打ち消されて居る)そして、當磯崎神社を『寶龜六年乙卯霜月十日、當所に岩崎より遷宮、崇健神社と稱へ奉り』云々とし、延喜式に記された崇健神社にあてゝ居る。この『崇健神社』は加茂郡のどの神社であつたか今猶然して居ないのである。本郡富田村畑の高峰神社がそれであるとも云ひ、當磯崎神社も亦それであると云ふ。何れが眞か知らない。しかも、當神社は右記の通り磯崎神社を崇健神社と改稱したと云ふのだが、その崇健神社をいつから再び磯崎神社と改稱したと明示したものはない。
神社明細帳には『人皇四十四代 元正天皇御宇 養老三年五月 奉勧請則 延喜式神名根に崇健神社と御書記有之候處 其後養老養老四年二月宇佐より應神天皇を移し奉り磯崎八幡宮と稱す』云々とあり、當磯崎神社を最初 崇健神社と稱したやうになつて居る。
兎に角これらを綜合して考へるに、當神社は養老三年の創祀で、寶龜六年に上道山の岩崎から現今の地に移し祀り、その當時 崇健神社社と稱して居たが(これも確とは云へないが)それからずつと後に、宇佐八幡を勧請し、礒崎八幡と改稱したのではなからうかと思ふ。更に明確な記録を得て考究すべきである。
その名稱の點は別として、當神社は往時 朝廷に知られた有名な神社であつたことは疑ひなく、時々勅使の参向もあつたらしく、今も華表の左側に勅使塚を存して居る。代々の領主も亦崇敬し淺野又市郎の時には田畑高二十石を寄進した。
黒印狀は左の通りである。
播州加西道山之庄為磯崎八幡宮之社領同所之内以自力
被開發之田畑高貳拾石淺野又市郎殿所被寄附之也全可有
社納並境内山林諸役等如先规之免除之也延寶五丁巳年五月七日
藤井及助判
奥野将監判
大石賴母助判
道山神宮寺 快知院祭典は往時可なり盛であつたらしく、九月九日には上野村 石部神社へ神輿の渡御があり、上巳の節句には北條町住吉神社へ神輿の渡御あり荘厳な祭式があつたがいつの頃からかそれらは廃されてしまった。
氏子は以前 下道山、上道山、大内、若井の四ヶ村であつたが天正十五年若井に當神社の神霊を分け社を建立したので若井は寶暦年間分離し、大内も亦 安政年間に分離したので當今は下道山、上道山の二區である。
境内には高良社(祭神 武内宿禰) 住吉社(祭神 表筒之男命、中筒之男命、底筒之男命)稲荷神社(祭神 稲食魂命)少名彦社(祭神 少名彦命)天滿宮社(祭神 菅原大神)及 神武天皇遥拜所がある。
【原文参照】
兵庫県加西郡教育会 編『加西郡誌 : 御大典紀念』,兵庫県加西郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1077261
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・礒崎神社 社殿〈拝殿・幣殿・本殿〉
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・礒崎神社 拝殿
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・〈本殿の向って右奥 境内社〉2社合殿
・稲荷社《主》宇迦御魂命
・住吉社《主》上筒男命、中筒男命、底筒男命
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・〈本殿の向って左奥 境内社〉2社合殿
・高良神社《主》武内宿禰
・少名彦社《主》少名彦命
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・〈2社合殿の横〉神庫
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・〈神庫の前〉鬼瓦
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・〈社殿向かって左 境内社〉2社
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手前から
・〈社殿向かって左 境内社〉大己貴命 清和天皇
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・〈社殿向かって左奥 境内社〉薬師神社《主》大名持命 薬師如来
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・〈参道石段 境内社〉門守随神社が一対
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・〈参道途中 境内社〉天滿神社《主》菅原大神
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・参道
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・参道入口
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈磯崎神社の創建の趾地〉岩崎神社(加西市上道山町690)
磯崎神社の由緒には 719年に現在の上道山町 岩崎神社の地に創建され その50年ほど後に礒崎神社(加西市下道山町)〈現在の地〉に遷座されたと伝えらています
『加西郡誌 : 御大典紀念』昭和4年に記される内容
【抜粋意訳】
神社 西在田村 無格社一覽
上道山 岩崎神社
田心姫命
湍津姫命
市杵島姫命下道山 村社 磯崎神社を寶龜六年 此地から遷し祀った其趾へ 當社を建て祀ったもので古宮と稱して居る
【原文参照】
兵庫県加西郡教育会 編『加西郡誌 : 御大典紀念』,兵庫県加西郡教育会,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1077261
・赤穂浪士ゆかりの地 奥野将監屋敷跡
当地の播磨国賀茂郡は赤穂藩の飛び地であったが 赤穂藩重臣の奥野定良(将監 1647~1727年)の屋敷跡があります
奥野定良は 赤穂義士の吉良邸討ち入り決定後に脱盟し当地に住みました
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赤穂義士ゆかりの地
「忠臣蔵」で有名な浅野赤穂藩は、小保2年(1645年)6月、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の祖父である浅野長直が常陸国(茨城県)笠間藩より国替えにより赤穂藩主となったことに始まります。赤穂藩が誕生した当時、所領は53500石でしたが、そのうち、赤穂郡一円にあったのは35200石。
加えて、飛地として、佐用郡に1200石、河東郡に8200石、加西郡に8900石が所領としてありました。つまり、赤穂藩の所領のうち、約1/3にあたる所領が加東郡・加西郡にあったことから、加西市には赤穂義士ゆかりの地が今でも数多く残ります。
奥野将監(おくのしょうげん)屋敷跡(礒崎神社脇)
赤穂藩士の一人で浅野家の重臣である奥野将監が隠れ住んだという屋敷跡が礒崎神社の脇にあります。
奥野将監は、赤穂城明け渡し後、大石内蔵助に次ぐ重臣として大石内蔵助を支え、藩内の取りまとめにあたりました。しかし、浅野家再興が不可能になると、吉良上野介への仇討ちが決定した京都の円山会議の直後に脱盟し、討ち入りには参加しませんでした。
この脱盟については、大石内蔵助が吉良上野介を討ち漏らした際に備える2番手だったとも、また、浅野内匠頭の隠し子を育てるためだったとも云われていますが、真相は不明です。
脱盟後は、将監の娘が礒崎神社の宮寺 快智院に嫁いでいるのを頼り、右衛門(ウエ門)と名を改め、礒崎神社脇の山裾に居を構え、晩年を過ごしました。
禄高1000石の高禄であった将監ですが、討ち入りに参加した藩士が義士として持ち上げられる一方、討ち入りに参加しなかった藩士たちは身を隠すように暮らしていたことを物語る小さな住居跡です。
礒崎神社
礒崎神社は、719年に現在の上道山町 岩崎神社の地に創建され、その50年ほど後に現在の地へ遷座されたと伝えられる由緒ある神社です。
創建当時から、朝廷からの勅使が遣わされた数少ない神社の一つで、平安時代には雨乞いの神様として広く知られていました。江戸時代、神宮寺が建ち、僧侶が礒崎神社に奉仕していました。奥野将監は、この神宮寺を頼ってやってきました。
平成29年度 「第29回忠臣蔵サミット in 加西」開催記念事業
現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Englishmen Jericho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 崇健神社
[ふ り が な ](たかたけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takatake no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』に載る「崇健神社(たかたけの かみのやしろ)」のについて
延喜式内社 因幡國 邑美郡 中臣崇健神社(なかとみたかたけの かみのやしろ)
・中臣崇健神社(鳥取市古郡家西土居)
延喜式内社 播磨國 賀茂郡 崇健神社(たかたけの かみのやしろ)の論社
・高峯神社(加西市畑町)
高峯神社(たかみねじんじゃ)は 勧請の年月等不明ですが 口碑伝える所によれば 昔は 神路山〈深山〉の頂上に祀られていた 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 崇健神社(たかたけの かみのやしろ)であると云う 又 深山の麓に鎮座する河上神社(かわかみじんじゃ)は 大岩を神体として 境内には不思議な岩「鏡岩」があります
高峯神社(加西市畑町)〈『延喜式』崇健神社〉・河上神社(加西市畑町)
・礒崎神社(加西市下道山町)
礒崎神社(いそざきじんじゃ)は 養老3年(719)僧 行基が神勅を蒙つて 上道山の岩崎山麓〈現 岩崎神社の社地〉に創祀 寶龜六年(775)上道山から現今の地に遷座『延喜式〔927年〕』には播磨國 賀茂郡 崇健神社(たかたけの かみのやしろ)と称したが 後に宇佐八幡を勧請し 礒崎八幡と改稱したのではなかと推測されています
礒崎神社(加西市下道山町)〈『延喜式』崇健神社〉
・山氏神社(加東市社)
山氏神社(やまうじじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇の御代に山祇尊を奉斎御鎭座された 第14代 仲哀天皇の御代に日本武尊を奉斎 承元元年(1207)地方開発の祖 源頼道を霊神とし合祀した由緒があり 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 崇健神社(たかたけの かみのやしろ)の論社で〈旧称〉崇健宮(たかたけのみや)とも呼ばれました
山氏神社(加東市社)〈延喜式内社 崇健神社〉
・日吉神社(加西市池上町)
日吉神社(ひよしじんじゃ)は 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 崇健神社(たかたけの かみのやしろ)の論社です 最初 鎌倉山を御神体山とし「鎌倉の神」〈奥宮〉 を現在の里に勧請したと云う その後 比叡山坂本山王権現を勧請したと云う〈『播磨鑑』には淳和天皇の天長年間(824~834年) 或は それ以前の神亀二年(725)〉
日吉神社(加西市池上町)〈『延喜式』崇健神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
北条鉄道 北条駅から県道369号経由で北方向へ約6.7km 車での所要時間は11~16分程度
礒崎神社(加西市下道山町)に参着
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鳥居をくぐり抜けて 緩やかに参道を上りながら進みます
途中に開けた平地があり 中々に良い眺めです
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ここから赤穂浪士ゆかりの地 奥野将監屋敷跡へと行けるようです
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参道は 土塀と社務所の間を抜けて さらに山へと続いています
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山からの獣除けの防柵があり 出入りの際は この獣防柵を開け閉めしますが 人の出入りには ドアが付いていますので ドアを開けて進みます
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防柵の扉を閉めると 景色は一変して 深い森の中を参道が続いています
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参道の向かって左手に 石畳みの脇参道があってその先に祠が祀られています
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〈境内社〉天滿神社でした お祈りをします
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ふたたび参道に戻ります 参道の先には拝殿の屋根が見えてきました
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石段の手前には注連柱が建てられていて 石段の途中には 門守随神社が一対向き合っています
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社殿はもう一段高い壇に祀られています
石段を上がり
拝殿にすすみます
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拝殿のすぐ前には 狛犬が座しています
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拝殿内には絵馬が奉納されています
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿の周囲には境内社が祀られています
〈社殿向かって左 境内社〉大己貴命 清和天皇を祀る祠
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印象に残ったのは そのさらに奥手にある〈境内社〉薬師神社《主》大名持命 薬師如来です
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明らかに 神仏習合していますが
神道的に見れば 出雲神の大己貴神と少彦名命を祀るものです
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この薬師神社にお参りをしている時には その位置にだけ強い日差しが差し込んでいました 祠は日光に照らされています
祠の後ろの山が古墳に見えてしまって 深々と一礼をしたのを覚えています
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拝殿の前に戻り 社殿に一礼をして 参道を戻ります
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獣防柵のドアを開けて 参道の入口へと向います
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 崇健神社について 所在は不明であると記しています
説として゛式社記に、高田村にあり゛
【抜粋意訳】
崇健神社
崇健は多加多氣と訓べし
○祭神詳ならず
○在所分明ならず
式社記に、高田村にあり、古跡便覧、播磨鑑、共に其所しれずと云り、猶國人に尋ねて一決すべし、
類社
因幡國 邑美郡 中臣崇健神社
【原文参照】
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『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 崇健神社について 社号のみ
祭神 在所等は未記入です
【抜粋意訳】
崇健(タカタケノ)神社
【原文参照】
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『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 崇健神社について 所在は記していません
祭神は 因幡國 邑美郡 中臣崇健神社と同神と記しています
【抜粋意訳】
播磨國加茂郡
○加茂郡八座並小崇健神社
祭神 稱 磯崎神社
今按 因幡國 邑美郡 中臣崇健神社あり 因幡志に林木欝茂の地をさして神居と云のみにて 祭神詳ならず 本社と同神なるへけれと今考へき由なし
祭日 十月十八日
社格
所在
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
礒崎神社(加西市下道山町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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播磨国 50座(大7座・小43座)の式内社に戻る
播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について