伊勢久留麻神社(いせくるまじんじゃ)は 伊勢國の式内社 久留真神社より勧請せるものと云われます 第三十代敏達天皇〈西暦572~585年〉御病気平癒 祈願の砌り(名)明神祭を奉祀し 快復されましたことにより「明神社」の称号を賜った 延喜式内社 淡路國 津名郡 伊勢久留麻神社(いせくるまの かみのやしろ)です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
伊勢久留麻神社(Isekuruma shrine)
【通称名(Common name)】
・明神さん(みょうじんさん)
・〈旧社号〉来馬大明神
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県淡路市久留麻字神田2033
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》大日孁貴尊(おほひるめむちのみこと)
《相殿神》漢織姫尊(あやはとりひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
伊勢久留麻神社
祭神 大日孁貴尊(オオヒルメムチノミコト)
(天照大御神)淡路國 三宮
延喜式神名帳 所載第三十代敏達天皇御病気平癒
祈願の砌り(名)明神祭を奉祀。快復されましたことにより「明神社」の称号を賜る。
古より由緒正しく祟敬の顕著な神々を選んで全國に二八五座指定される。
明治六年二月吉日 社格 正三位上 郷社に列格
明治七年再三、再四の禁止令が解かれ 菊花紋卓使用を許される。
明治四五年七月吉日 神饌幣帛指定神社現地案内板より
【兼務社】伊勢久留麻(いせくるま)神社
<御由緒>
江戸時代に徳川幕府により神道の総本部的地位を与えられた京都・吉田神社の神祇博士・臼井武祐の説によれば「第三十代敏達(びだつ)天皇の御代(西暦572~585年の間か)に伊勢国奄芸郡(あんきぐん)の久留真(くるま)神社の御祭神を遷せるものなるべし」とされているが、この説が記載されている「淡路常盤草」の文中でも「然しこの本拠覚束なし」と締め括られている。また、主祭神である大日孁貴尊についての記述はなく、伊勢久留麻神社に鎮座されている由緒については詳細不明である。
この為、創建は少なくとも1440年以上前と考えられる。
延喜式神名帳においては、淡路国十三座(大二座/小十一座)の中に数えられ、「大二座」とされている「淡路伊佐奈伎神社(名神大社・淡路国一之宮)」※、「大和大國魂(やまとおおくにたま)神社(名神大社・淡路国二之宮)に次いで小社十一座の筆頭に記載されている事から「淡路国三之宮」と呼ばれている。
※現在の伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)
淡路島北部の仁井出身の幕末の高名な国学者・鈴木重胤(しげたね)をして「淡路島内においてはこの神社ほど由緒正しき神社はない」と言わしめたと伝わる。
(注)当然、淡路国一之宮の伊弉諾神宮、二之宮の大和大國魂神社は別格としての重胤先生のご発言であろう
【参考】御由緒についての考察
ちなみに久留真神社は現在三重県鈴鹿市白子に鎮座されているが、その御祭神は大巳貴尊(おおなむちのみこと)、相殿に須世理姫尊(すせりびめのみこと:大巳貴尊の妻)と漢織姫尊となっている。
久留真神社社伝によれば、第二十一代雄略天皇の御代(西暦458~479年の間か)に呉の国(中国)から来日し、勅命に従って伊勢国に紡績や衣縫(きぬぬい)の技術を伝えた漢織姫とその一族の多大な功績を讃えるべく神様として相殿に合祀したとの事である。
この事から、淡路島の現在の東浦の地に伊勢国から紡績・衣縫技術が伝えられた際に、漢織姫尊が紡績・衣縫の神様として分祀され大日孁貴尊の相殿に鎮座されると共に、「伊勢の久留真神社の御祭神をお遷しした」事を表すべく「伊勢久留麻神社」という名称になったものと推察される。
この点を踏まえると、「伊勢久留麻神社」と名付けられる前、大日孁貴尊が一柱のみで鎮座されていた神社自体はそれよりかなり前から存在していたと考えるのが自然である。
前述の通り、大日孁貴尊は天照大神の別称である事から、伊勢久留麻神社となる以前には、太陽神である天照大神をお祀りする場所、もしくは太陽信仰の斎場といった位置付けの場所であった可能性が高い。
松帆神社゛兼務社・伊勢久留麻神社゛HPより
https://matsuhojinjya.com/custom11.html
【由 緒 (History)】
伊勢久留麻神社の由来
伊勢久留麻神社は、遠く伊勢ノ国 久留真より勧請せるものと言われ 祭神は大日孁貴尊と称され 敏達天皇の頃(五七二~五八五)と言われ、延喜式(九二七年完成)には 淡路十三社の三番目に明記されている
その為 淡路イザナギ神宮を一の宮とし この神社は、三の宮とも言う。
昭和五十五年二月十一日 建国の日に NHKテレビが特別番組として、「知られざる古代~謎の北緯三十四度三十二分を 行く」で西のお伊勢さんとして紹介したので 俄然全国的にも有名になったものである。
平成三年四月吉日現地案内石碑より
由 緒
創祀年代不詳。
社伝によると敏達天皇の御代に、伊勢国奄藝郡久留眞神社を勧請したという。
往古「久留麻」は、来馬とも書かれたが、呉織の意味とも考えられている。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・〈本殿 御塀の外 向かって右〉嚴島(イツクシマノ)神社・愛宕(アタゴノ)神社
・〈本殿 御塀の内 向かって右〉猿田彦(サルタヒコノ)神社
・〈本殿 御塀の内 向かって左〉伊拜諾(イザナギノ)神社
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・稻荷(イナリノ)神社
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)淡路國 13座(大2座・小11座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)津名郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 伊勢久留麻神社
[ふ り が な ](いせくるまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Isekuruma no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
伊勢國 奄藝郡 久留眞神社(くるまの かみのやしろ)の論社について
伊勢久留麻神社(淡路市久留麻)は「伊勢の久留真神社の御祭神をお遷しした」事を表す名称とされます
・久留真神社(鈴鹿市白子)
〈伊勢の森 福徳之宮 車之女神〉
久留真神社(くるまじんじゃ)は 往昔 伊勢の森という神域に鎮座゛福徳さん゛と称され 樹齢1千年以上の゛福徳の松〈御植木〉゛が天に聳えていたと云う その後 第21代雄略天皇の御代(465年頃)相殿に漢織姫尊を合祀して゛福徳の車の女神゛と称された 延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 久留眞神社(くるまの かみのやしろ)の論社です
久留真神社(鈴鹿市白子)〈伊勢の森 福徳之宮 車之女神〉
・逆川神社〈龍王大権現〉(津市栗真小川町)
・勝速日神社(鈴鹿市白子本町)
〈通称 勝手さん 勝手大明神〉
勝速日神社(かつはやひじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 久留眞神社(くるまの かみのやしろ)の論社であった〈伊勢の森に鎮座した゛福徳さん゛〉が 寛永11年(1634)紀州藩の別邸と代官所を創設する時に 久留真神社を移転した その際 氏子が南北に分かれ「久留真神社」と「勝速日神社」に分社し 創設されたものです
勝速日神社(鈴鹿市白子本町)〈通称 勝手さん 勝手大明神〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
神戸淡路鳴戸自動車道 東浦ICから東南方向へ約3.1km 車で7分程度
淡路島の東海岸へと向かいます
R28号線を南下すると右手に鳥居が見えます
伊勢久留麻神社(淡路市久留麻)に参着
一礼をして 鳥居をくぐると すぐ左手に駒留松があります
史蹟 第三代駒留松
駒留松は 千年松とも称された松 楠正成が参拝時に馬をとめたとも 祭礼に朝廷からの供進使の馬を繋いだとも云う
拝殿に掲げられた゛楠公 駒留めの松゛の絵馬
参道は 駐車場の様に多くの車が止まっていました
境内の向かって左手には゛忠魂碑゛があります
注連柱があり 玉垣に囲まれた境内に社殿が建ちます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして 拝殿から振り返ります
鳥居の先には 国道28号線が横切っていますが 参道は海〈大阪湾〉仮屋港まで続いています
対岸は大阪です
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 伊勢久留麻神社について 所在は゛伊勢森に在す、伊勢明神と稱す、゛〈現 伊勢久留麻神社(淡路市久留麻)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊勢久留麻神社
伊勢は 假字也〔東海道、伊勢ノ國ノ名〕
久留麻は 假字也、和名鈔、〔郡名部〕来馬、〔久留米〕〇祭神 伊勢に坐すと同じかるべし
〇伊勢森に在す、伊勢明神と稱す、〔式社考、常盤草、〕例祭
〔連胤〕按るに、當社は伊勢園奄藝郡 久留眞神社を遷し祭れるなるべし、其 由緣は詳ならずといへども、伊勢の字を冠らしたるにて著し、
類社
伊勢國 奄藝郡 久留眞神社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 伊勢久留麻神社について 所在は゛今 久留麻村 伊勢森に在り、来馬大明神 又 伊勢明神と云ふ、゛〈現 伊勢久留麻神社(淡路市久留麻)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊勢久留麻(イセクルマノ)神社
〇按 新鈔格勅符、来馬に作る、
今 久留麻村 伊勢森に在り、来馬大明神 又 伊勢明神と云ふ、〔神名帳考証、淡路常盤草、〕
平城天皇 大同元年、神封二戸を充奉りき、〔新鈔格勅符、〕
凡四月十五日、九月十七日祭を行ふ、〔神社覈録、淡路式社考証〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 伊勢久留麻神社について 所在は゛来馬村(津名郡来馬村大字久留麻)゛〈現 伊勢久留麻神社(淡路市久留麻)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊勢久留麻神社
祭神 稱 伊勢明神
今按 明細帳 祭神 大日孁賣とあるは 伊勢の字によりて附會せるものなるへし こは其 由綠詳かならねと 伊勢園奄藝郡 久留眞神社を遷し祭れる社にやあらん
祭日
社格 郷社所在 来馬村(津名郡来馬村大字久留麻)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇兵庫縣 淡路國津名郡 來馬村大字久留麻
郷社 伊勢久留麻(イセクルマノ)神社
祭神 大日孁貴(オホヒルメムチノ)尊
舊と伊勢明神とも稱し、〔〇淡路常盤草、大日本地名辞書〕又 来風大明神とも稱せしと、〔〇大日本地名辞書〕創立年月詳ならず、〔〇明細帳〕
但、淡路常盤草に、
「井内光孝に ,吉田官臼井竹弘説に、淡路國久留麻社は敏達天皇の時、伊勢より鎭祭すといひしとぞ、此説本據おぼづかなきよし云々」
と見え、延喜の制小社に列せらる、明治六年二月郷社に列す、社殿は一宇にして、境内地は千三百九十八坪、 (官有地第一種)たり。境内神社
猿田彦(サルタヒコノ)神社
伊拜諾(イザナギノ)神社
稻荷(イナリノ)神社
嚴島(イツクシマノ)神社
愛宕(アタゴノ)神社
【原文参照】
伊勢久留麻神社(淡路市久留麻)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
淡路国の式内社 13座(大2座・小11座)
淡路国(あわじのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 淡路国 13座(大2座・小11座)の神社です 『古事記』『日本書紀』の記紀神話”国産み神話”によれば 日本列島で最初に生まれた島とされます
淡路国 式内社 13座(大2座・小11座)について