伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)は 中世に廃絶したとも云われます 室町時代末の『高良社画縁起』では 山麓大鳥居の北(現御井小学校正門付近)に「伊勢」の小祠が描かれていて 明和4年(1767)の府中大火を機として 現在地に遷座されたと伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
伊勢天照御祖神社(Ise amaterasumioya Shrine)
(いせあまてらすみおやじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
福岡県久留米市御井町1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照大神(Amaterasu okami)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
桓武天皇の延暦3年(784)9月 国司 藤原易興の受奏によって 伊勢国山田原(宇治山田、現伊勢市)より遷座 神貢57束が奉られたという
【由 緒 (History)】
式内 伊勢天照御祖神社
(しきない いせあまてらすみおや じんじゃ)御祭神 天照大神(あまてらすおおみかみ)
御由緒
「延喜式神名帳」所載、筑後国大小四座のうちの一社で、いわゆる「式内」の古社である。天慶7年(944)の『筑後国内神名帳』には、「正五位下伊勢天照名神」とも見える。伝えるところによれば、桓武天皇の延暦3年(784)9月、国司 藤原易興の受奏によって、伊勢国山田原(宇治山田、現伊勢市)より遷座、神貢57束が奉られたという。即ち筑後における最も由緒正しい皇大神宮(内宮)の分祀である。
建仁元年(1201)の文書には、単に「伊勢社」とあり、室町時代末の『高良社画縁起』では、山麓大鳥居の北(現御井小学校正門付近)に「伊勢」の小祠が描かれているが、明和4年(1767)の府中大火を機として、現在地に遷座された。同年以降、毎年7月23・4の両日には「灯篭賑」が行われ、参詣者が群集したという。左右の境内社(八幡宮・天満宮)も、古くから山内に祀られていたものを、ここに遷したのである。御祭日 11月13日(摂末社例祭) 高良大社
現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
左右の境内社
・八幡宮・天満宮
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
当社は 高良大社の参道の途中に鎮座しています
・高良大社(久留米市)
高良大社(こうらたいしゃ)は 久留米の高良山に鎮座し 社殿は北東を向いて祀られ そのはるか先を望めば 玄界灘を渡り 壱岐と対馬を向いて 大陸へと通じています 御祭神 高良玉垂命は 朝廷から正一位を賜る程の神ですが 記紀には記されぬ隠神で 古くから諸説あり正体は不明 かつて武内宿禰命とする説が有力でしたが 明治以降は特に比定はなく 謎の神とされます
高良大社(久留米市御井町)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑後国 4座(大2座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三井郡 3座(大2座・小1座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 伊勢天照御祖神社
[ふ り が な ](いせのあまてらすみおやの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Iseno amaterasumioya no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「筑後國 三井郡 伊勢天照御祖神社」の論社は2つあります
廃絶したとも伝わる当社の現在の論社は2つ
・伊勢天照御祖神社(久留米市御井町)〈高良大社 参道に鎮座〉
伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)は 中世に廃絶したとも云われます 室町時代末の『高良社画縁起』では 山麓大鳥居の北(現御井小学校正門付近)に「伊勢」の小祠が描かれていて 明和4年(1767)の府中大火を機として 現在地に遷座されたと伝わります
伊勢天照御祖神社(久留米市御井町)
・伊勢天照御祖神社〈大石神社〉(久留米市大石町)
伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社とされていますが 久留米市御井町の高良大社の末社と当社に比定が分かれています 当社の祭神は天照国照彦天火明尊〈饒速日命〉とされ 物部氏の日神祭祀に関連していたと思われます
伊勢天照御祖神社〈大石神社〉(久留米市大石町)
式内社にある 伊勢天照御祖神と類似する名称の神社〈論社一覧〉
大和国(奈良県)
(大和國城下郡 鏡作坐天照御魂神社 大)
・鏡作坐天照御魂神社(田原本町)
・鏡作神社(三宅町石見)
大和国(奈良県)
(大和國城上郡 他田坐天照御魂神社 大)
・他田坐天照御魂神社(桜井市太田)
・春日神社(桜井市戒重)
山城国(京都府)
(山城国 葛野郡 木島坐天照御魂神社(名神大 月次相嘗新嘗))
・木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)(太秦森ケ東町)
木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)〈蚕の社〉は 京都市内最古の神社の一つと云われます 境内にある「元糺(モトタダス)の池」には「三柱鳥居(ミハシラノトリイ)」と呼ばれる正三角形に柱を組んだ鳥居があり その正三角形の中心点には円錐形に小石を組みあげた神座が座して御幣が依代として立てられています 「秦氏(はたうじ)」の祭祀に深く関わる神社とされています
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
山城国(京都府)
(山城国 久世郡 水主神社十座(並大月次新嘗・就中同水主坐天照御魂神水主坐山背大国魂命神二座預相嘗祭))
・水主神社(城陽市水主宮馬場)
摂津国(大阪府)
(攝津國嶋下郡 新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大)
・新屋坐天照御魂神社(西福井)
新屋坐天照御魂神社(にいやにます あまてるみたまじんじゃ)は 第10代 崇神天皇〈推定在位 BC97~BC30年〉が 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)に命じ 天照御魂大神(あまてるみたまのおほかみ)を奉祀とあり 亦名を 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテル クニテルヒコ アメノホアカリクシダマ ニギハヤヒノミコト)と云い 神武天皇即位前に大和国を治められていた尊い神であるとされます 創建から2100余年の長い歴史と高い社格を誇る延喜式内名神大社です(西福井)(宿久庄)(西河原)に3社の論社があり その中で中心的な存在が 一般に当神社(西福井)です
新屋坐天照御魂神社(西福井)
・新屋坐天照御魂神社(宿久庄)
新屋坐天照御魂神社は 3社(西福井)(宿久庄)(西河原)があり その中で中心的な地位を占めるのが(西福井)で背後にある「日降丘」に神が降臨したのが創建とされ その後 神功皇后が荒魂を当地(宿久庄)に勧請したと伝えられています
新屋坐天照御魂神社(宿久庄)
・新屋坐天照御魂神社(西河原)
新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)は 3社(・西福井・宿久庄・西河原)があり その中で中心的とされるのが(西福井)です 異説では『倭名類聚抄』にある「新屋郷」は 当地(西河原)の事であり元社とする説 又 享保14年(1729~1734)編纂『五畿内志(ごきないし)』や『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』〈寛政8年(1796)-寛政10年(1798)刊行〉でも 当地(西河原)を 3社の中心地としています
新屋坐天照御魂神社(西河原)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
久留米大学前駅から 県道750号を南東方向へ約1.7km 車道にある 高良大社の 二之鳥居から高良山の山頂へと表参道が続きます
一礼をしてから 高良大社の二之鳥居をくぐります
背比べ石 馬蹄石など 神功皇后の史跡が 点在する参道〈山道〉を上がります
暫らく進むと 参道の左上に鳥居が建っていて
伊勢天照御祖神社(Ise amaterasumioya Shrine)に参着
参道の石段を上がると 玉垣に囲まれて 鳥居が建ち その奥に小社が3社並んで鎮座しています その手前には 社号標があり「伊勢天照御祖神社 所載 延喜式 當國大小三座之内也」と刻まれています
一礼をして鳥居をくぐり 社殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
左右の境内社・八幡宮・天満宮にもお詣りをします
玉垣内の神域を出て 一礼をして 参道を下ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
神社名のみが記されています
【意訳】
伊勢 天照御祖(アマテラスミオヤノ)神社
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
廃絶しており 祭神や所在等は 良くわからない 久留米志によれば 今 高良山中に有り と記しています
【意訳】
伊勢天照御祖神社
伊勢は仮字なり 天照御祖は阿麻弖留美於夜と訓ずべし
〇祭神所在等詳らかならず久留米志云 今廃にその地失い 今 高良山中に有り 天照社 標を以って式中四社の一非是 或いは云う 社旧在 その下 府中町 後遷に山之上
類社 山城国 愛宕郡 賀茂御祖神社の條見合うべし
神位 古文書 同前 御井郡正5位下 伊勢天照明名神 召 間古老申云 元来 公家奉授之位也者 而位記紛失 天慶7年4月22日
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社の所在を大石村 祭神を天照御祖神と記しています
【意訳】
伊勢天照御祖神社
祭神 天照御祖神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 天照大神 二荒祭宮 豊受大神を合せ祭るとみえ
式帳に伊勢天照御祖神と云い
当社の古記に伊勢御前神社 又 天照御前神社とも記せる由なれば 誰も天照大御神ならんと思う事なれとも 天慶7年 大祝家所蔵の古文書に正5位下 伊勢天照名神とありて 神階を授けられたる趣なれは 天御神に坐さる事明けしさて 大御神に坐されとも天照と云える例は 木島水主他田鏡作新屋等にます天照御魂神社 天照玉命神社なともあれば 天照御祖神と云うとも天照大御神とは云いかたし故 姑く式に従いて神名を記せり社格 縣社
所在 大石村(三潴郡鳥飼村大字大石)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
所在は「鳥飼村 大字 大石」としているが 「高良神社に詣る山路の中央に移し 新たに小社を建立せり」との説も記しています
【意訳】
福岡縣 筑後國 三潴郡 鳥飼村 大字 大石
縣社 伊勢天照御祖(イセアマテラスミオヤノ)神社
祭神 天照國照彦天火明命(アマテルクニテルヒコアメノホアカリノミコト)
創建年代詳らかならず
延喜式に 三井郡 伊勢天照御祖神社あり
管内志に「伊勢天照御祖は 意世阿萬弖留美於也と訓むべし 名の義は 伊勢国に鎮座す 天照大御祖神の意なり 社社の名に伊勢何と云う「式」に多く見ゆ 又 社記一説に云く 伊勢は石の訛にて この地の名なり 天照御祖とあるは 物部氏の祖先 饒速日命を祭れるならん 諸州 その例多し云云」と見えたり
民部省園帳の残編に「筑後國云々 神明神 貢57束有餘田 桓武天皇 延暦3年甲子9月 依 国司 藤原易興之受奏 自伊勢国山田原御遷座」とあるも 正しく この御神の事と知られたり
又 筑後鑑に「伊勢天照御祖神社 愚按 此神者有何処也 頃尋 高良神職家云 在山麓石社地」とあるは詳ならざれども 強いて考えるに 古くより玉垂神社 豊比咩神社と 三社同所にありしなるべし 豊前国香春の永宇御宮なども 三社同所にあり 又 「天正6年 筑紫鎮恒が斎ける神にも高良三社とあり」
次いで筑後 志當神社の下に「中世 兵火に罹り廃絶し 今その旧蹟を尋ねるに據(ヨリドコロ)なし 後年 山下石鳥居の傍に 小祠を建て勧請せり 何人の所為なることを知らず 近會 又 高良神社に詣る山路の中央に移し 新たに小社を建立せり云々」と見えたるは すなわちこの神社を指せるのなり
明治6年3月14日縣社に列す
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』
伊勢天照御祖神社(Ise amaterasumioya Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
筑後国 式内社 4座(大2座・小2座)について に戻る
筑後国(ちくごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 筑後国(ちくごのくに) 4座(大2座・小2座)の神社です
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