伊射波神社(いさわじんじゃ)は 稚日女尊(わかひめのみこと)を海の道から加布良古崎(かぶらこざき)へ祭祀したのが起源とされ 本来は海から参拝する社で 海に向かって鳥居が建ちます 昭和初期頃までは 社頭の海岸まで船寄せしてお参りしたとされ 現在は 縁結びの御神威でも知られ 志摩国一之宮の巡拝者も多くいます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
伊射波神社(Isawa shrine)
[通称名(Common name)]
・志摩大明神(しまだいみょうじん)
・加布良古大明神(かぶらこだいみょうじん)
・加布良古さん(かぶらこさん)
・一之宮(いちのみや)
【鎮座地 (Location) 】
三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1210
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》稚日女尊(わかひめのみこと)〈多紀理比賣(たぎりひめ)命とも〉
伊佐波登美命(いざわとみのみこと)〈伊射波登美神〉
玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
狭依姫命(さよりひめのみこと)〈市杵嶋姫(いちきしまひめ)命とも〉
《相殿神》加夫呂伎大神(素佐之男尊)
大日霊女貴尊(天照大神)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・縁結び・安産・夫婦和合・海上安全・大漁祈願・五穀豊穣・合格祈願・病気平癒
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 志摩國一之宮
【創 建 (Beginning of history)】
当社は、加布良古崎山頂に鎮座し、椎や椨などの巨木の林立する境内に、神明造の本殿と拝殿、籠堂があります。『延喜式』神名帳にも大社として登載されている由緒ある神社です。志摩の国一之宮として全国各地より参拝者が訪れています。
由 緒
神代の昔、天照大神のお側にお仕えしていた高貴な姫君であらせられる稚日女尊を加布良古崎に祭祀したことに始まり、平安時代の『延喜式』神名帳にも大社として登載され、加布良古大明神、志摩大明神とも称されています。
伊佐波登美尊を主祭神とする伊射波神社の本地は、安楽島の二地にありましたが、平安時代の終わり頃に加布良古崎に遷座されました。安楽島が、粟島と呼称されていたころ、加布良古崎の前海にある長藻地という島嶼に神乎多乃御子神社がお祭されていましたが、戦国の世に水没してしまいました。幸い、ご神体は村人により見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されています。三重県神社庁教化委員会HPよりhttp://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/%e4%bc%8a%e5%b0%84%e6%b3%a2%e7%a5%9e%e7%a4%be/
【由 緒 (History)】
志摩国一の宮 伊射波神社
鳥羽駅よりバスで約25分、安楽島で下車、停留所の前に安楽島公民館がある。そこから徒歩で左の参道口より約40分、山の田に囲まれた狭い山道を三つほど、山を越えると海岸堤防に出る。海と島の見えるその先に海に向かって鳥居が立ち、その前が菅島である。海に向かって立っている鳥居より加布良古崎の上の鎮座地へ、坂道を約280m登る。ゆっくり歩いて約25分、樹木に覆われた中に木造神明造の本殿、拝殿がある。昭和51年(1976)の造営である。
人里離れた神域は、海の風が木々に吸われて、参道で流した汗を収めてくれる。陸地は山に囲まれて、海に向かって開かれた海の女神の社である。創建は明らかではないが、古代の人々は、海の道から加布良古崎に宿る女神を拝んできた。社殿の脇には昭和31年(1956)に再建さられた籠 堂がある。昔からこの堂に篭って、大漁の祈願や修行をする人々がいた神域であった。
安楽島では志摩大明神、加布良古大明神と呼ばれ、加布良古さんの愛称や一之宮で通っている。
主祭神は多紀理比売、配神は多岐津姫、狭依姫、相殿神は加夫呂伎大神(素佐之男尊)、大日霊女貴尊(天照大神)である。二大神は神婚し、三女神が生まれて海の守り神となった。加布良胡岬に風の凪に通じる梛の木を神木として植え、宇志波那流神として祀られた。古代には二礼四拍手一拝の参拝形式としていた。
全国一の宮めぐりhttps://ichinomiya.gr.jp/012.html
加布良古さん(伊射波神社)
良縁をもたらすとされる志摩の国の一の宮。安楽島町の岬に鎮まります。参道の入口の鳥居は海に向かって立っており、かつて船でお参りした名残りを伝えます。
一般社団法人 鳥羽市観光協会HPより
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・本殿向かって左側 御神体の石(小さな鳥居がある)
《主》素戔嗚命、大日如来、不動明王
※御神体の石には 神の御姿があらわれています
・本殿向かって右側 御神体の石(小さな鳥居がある)
《主》いわ猿、玉柱屋姫命
・美保留神
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・領有神(うしはくかみ)〈宇志波那流神〉
・奇跡の窓
・伊射波神社 一ノ鳥居〈社頭の海に向かう鳥居〉
・伊射波神社 二ノ鳥居
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)志摩国 3座(大2座・小1座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)答志郡 3座(大2座・小1座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 粟嶋坐伊射波神社二座(貞・並大)
[ふ り が な ](あはしまのます いさはの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Ahashima no masu Isaha no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 志摩国 答志郡 粟嶋坐伊射波神社二座(貞・並大)の論社
粟嶋坐伊射波神社二座(貞・並大)(あはしまのます いさはの かみのやしろ ふたくら)の論社は 二つあり どちらも志摩国一之宮とされています
・伊雜宮(志摩市磯部町)志摩国一之宮
伊雑宮(いざわのみや)は 謎多き「志摩國 一之宮」とされています 伊勢の別宮としての高い格式も持ち「遙宮(tono miya)」と尊崇を集めます 「懸税(kake chikara)神事」の発祥の地として 御田植式(otaue shiki)があり 香取神宮・住吉大社とあわせて日本三大植祭の一つとされています
伊雑宮(志摩市磯部町)〈皇大神宮(内宮)別宮〉
・伊射波神社(鳥羽市安楽島町)志摩国一之宮
伊射波神社(いさわじんじゃ)は 稚日女尊(わかひめのみこと)を海の道から加布良古崎(かぶらこざき)へ祭祀したのが起源とされ 本来は海から参拝する社で 海に向かって鳥居が建ちます 昭和初期頃までは 社頭の海岸まで船寄せしてお参りしたとされ 現在は 縁結びの御神威でも知られ 志摩国一之宮の巡拝者も多くいます
伊射波神社(鳥羽市安楽島町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
鎮座地の安楽島(あらしま)町は 島という地名が付いているので 嘗ては島だったのだろうか
確かに 鳥羽駅から県道750号を南下して加茂川の河口を渡るとき対岸に三角錐(すい)の島のようにみえる
安楽島公民館の前に安楽島バス停があり 神社参拝専用駐車場となっています 駐車は一時間以内がルール
ここから 徒歩で伊射波神社に向かいます 案内図があり 道のり1.3キロ 徒歩25分と記されています
駐車場のすぐ近く(鳥居までは20m)には 満留山神社(まるやまじんじゃ)〈石段68段 丘陵頂に鎮座〉があり 産土神にお参りをしてから
伊射波神社へ参拝者が多いのでしょう 案内板が沢山あります
しばらく進むと人家は無くなり 細い舗装道路になっていきます
途中 案内板が立てられていて 人が通れる参道に別れています
再び 細い舗装道路に出てきました
細い舗装道路を道なりに進むと下り坂となり 一気に目の前が開け海辺に出ました
そのまま道なりに海岸線を進むと 一の宮参道は 下って鳥居をくぐるように案内があり 海岸へと下ります
海岸へ降りると アアここが かつて 稚日女尊(わかひめのみこと)を海の道から加布良古崎(かぶらこざき)へ祭祀した社頭の浜だとわかります 本来は海から参拝する社で 海に向かって鳥居が建ちます
海に向かう鳥居の横には 社号標「式内 伊射波神社」と刻まれています
伊射波神社(鳥羽市安楽島町)に参着
参拝者が積むのだろうか 賽の河原のように海岸の玉石が積まれています
一礼をして 鳥居をくぐり 参道の階段を上がります
登り参道を暫らく進むと 二の鳥居が見えてきます
一礼をして 二の鳥居をくぐり 暫くすると社殿の西側前へと出ます
社殿の前には 三の鳥居が建てられています
鳥居に一礼をして
拝殿にすすみます
拝殿の扉を開けると 志摩国一の宮 伊射波神社と祭神の扁額
本殿の前に拝所が設けられています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内には 神通力石
神事のポスターなどが掲示されています
明神祭で奉奏される「加布良古太明神」
参拝時は 御朱印は書き置きはなく 宮司宅の案内がありました
本殿の両脇には 小さな鳥居が置かれている石神〈美保留神〉が祀られています
境内にも 小さな鳥居が置かれている石神が祀られています
ふと見ると 梛の道〈領有神 奇跡の窓〉250mと記された立札があり 加布良古崎 (かぶらこざき)の先端にも興味があり 近そうなので進んでみます
大きな木の根元に 鳥居が建ち 玉垣があります
近づいてみると 神体石が祀られた石神〈宇志波那流神〉で
海上守護神 領有神(うしはくがみ)とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
加布良古崎 (かぶらこざき)の先端近くには 奇跡の窓
再び 伊射波神社まで帰ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
社頭の海に向かう鳥居が見えてきます
しばらくの間 かつて人々が船で参拝したであろうことに想いを馳せて海を眺めます
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社「粟嶋坐伊射波神社二座」について 今の本は伊雑(イサハ)について 雑を推し誤り と記しています
【抜粋意訳】
粟嶋坐伊射波神社二座(並大)
和抄 伊雑(イサハ) 今本雑ヲ推ニ誤
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社「粟嶋坐伊射波神社二座」について 現 伊雜宮(志摩市磯部町)と記しています
【抜粋意訳】
粟嶋坐伊射波神社二座(並大)
粟嶋は阿波之萬と訓べし、伊射波は假字なり、和名鈔、郷名部 伊雑
〇祭神 伊佐波登美命、玉柱屋命、世記
〇伊雑村に坐す
〇当国一宮なり、一宮記
〇式四、伊勢大神宮 伊雑宮一座、太神遙宮、在ニ志摩國答志郡、去ニ大神宮南八十三里
〇倭姫世記云、
垂仁天皇二十七年[戊午]秋九月 鳥の鳴声が高く聞え 昼夜止まず囂ししかった「此 異し」と宣して 大幡主命と舎人紀麻良を 使に遣って鳥の鳴く処を見させた 行って見ると 嶋国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり 根本は一基 末は千穂に茂っていた その稲を白真名鶴が咋へて廻り つついて鳴き これを見顕すと その鳥の鳴声は止んだ このように返事を申上げた
倭姫命が宣ふ「恐し 事問はぬ鳥すら田を作る 皇太神に奉れる物を」と詔して 物忌を始められ 彼の稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かし 皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた
その穂を大幡主の女子乙姫に清酒に作らせ 御餞に奉った 千税を始奉る事 茲に因るなり 彼の稲の生ひし地は 千田となづけ 嶋国の伊雑の方上にある その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り 皇太神の摂宮と為した 伊雑宮がこれである 云々
又云う 伊雑宮一座 天牟羅雲命裔 天日別命子 玉柱屋姫命是なり 形鏡坐
御鎮座伝記云う 伊雑宮一座 皇太神遙宮也 天日別命 兒 玉柱屋姫命なり 依るに神託祟祭之把笏
文徳実録
天安元年(八五七)九月○壬寅 伊勢國荒祭。月讀。瀧原。伊雜。高宮等神宮内人五人。始預把笏当社 並び伊勢國度會郡 荒祭宮。瀧原宮。伊佐奈岐宮。月讀宮及び瀧原並宮。風宮。等を太神宮別宮七處と称す
造替神寶社職等の事 繁多なれば 今これを悉さず 太神宮式 儀式帳 同解 其外 神宮の諸書を見るべし
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社「粟嶋坐伊射波神社二座」については 祭日と所在のみ記している 所在地の伊雑郷 磯部上之郷村から 現 伊雜宮(志摩市磯部町)志摩国一之宮としているのがわかる
【抜粋意訳】
粟嶋坐伊射波神社二座(並大)
祭神
祭日 一月九日 六月七日
社格
所在 伊雑郷 磯部上之郷村
【原文参照】
『三重縣神社誌(Mieken Jinjashi)〈大正8-15(1919~1926)〉』に記される伝承
式内社の粟嶋坐伊射波神社二座(並大)を考証していて 現 伊雜宮(志摩市磯部町)であろうと記しています
加布良胡明神社としての考証では 当社を当国の一之宮であるとも記しています
【抜粋意訳】
無社格 伊射波(イサハ)神社
志摩(シマ)郡加茂(カモ)村大字安楽島(アラシマ)字加布良古(カフラコ)千二十番地鎮座
一、祭神
玉柱屋姫(タマハシラヤヒメ)命
伊射波登美(イサハトミ)命一、由緒
「明細帳」に由緒[不詳]とあり一、考證
〔延喜式〕九神名帳 志摩國 答志郡 3座(大2座・小1座)
粟嶋坐伊射波神社二座(並大)〔大日本國一宮記〕
伊射波神社二座 志摩答志郡〔神名帳考證 三〕
粟嶋坐伊射波神社二座(並大)、伊射波與伊雑同 今俗云 磯部、伊佐波登美神一座、玉柱屋姫命、太神宮式云、伊雑宮一座、按為宮為社不〔三国地誌 八十六〕
伊射波神社 本国一宮
(以下 延喜大神宮式、神名式、延暦儀式帳 倭姫世記を引く)
按 上郷村に座す 俗呼を磯部ノ宮と云う 伊佐波登美命 玉柱屋姫命の二神を祀る 或いは一座として或いは二座とす〔粟嶋坐伊射波神社二座(並大)〕
粟嶋は阿波之萬と訓べし 伊射波は假字なり、和名鈔、郷名部 伊雑〇祭神 伊佐波登美命、玉柱屋命、世記〇伊雑村に坐す〇当国一宮なり、一宮記〇式四、伊勢大神宮 伊雑宮一座、太神遙宮、在ニ志摩國答志郡、去ニ大神宮南八十三里〔太神宮本記歸正鈔 五〕
延暦儀式帳には管神宮肆院の内に伊雑宮一院を載せ 延喜太神宮式別宮の内に伊雑宮一座 大神遙宮在 志摩國答志郡と載す
但し神宮より摂するときは 伊雑宮と宮号を以て称し 志摩國司の管する時は伊射波神社と社号を以てせしと見えて
延喜式神名帳に 志摩國 答志郡 粟嶋坐伊射波神社二座(並大)とあり 最初は皇大神の遙宮たる御霊一座のみなりしかは神宮より管摂する一座のみなるに 後には何れの神霊をか今一座神殿に奉祭したりけむ〔大日本史 二百五十四〕神祇志十一志摩國
粟嶋坐伊射波神社二座 又 稲粟島神 東大寺正倉院文書 新鈔格勅符〇今在 磯部荘上郷村
其の一座蓋紀 伊佐波登美神
神亀中 有本國神戸課丁六人 東大寺正倉院文書
大同元年 定封二戸 新鈔格勅符
延喜制 共列大社 延喜式
後称す 本国一宮 一宮〔神祇志料 十一〕志摩國
粟嶋坐伊射波神社二座 今 上之郷村にあり 志摩國式 内社検録
これを志摩一宮とす 一宮記
蓋し伊佐波登美神 玉柱屋姫命を祭る 倭姫世記 神名秘書大要
平城天皇 大同元年 粟島神に志摩地二戸を以て神封に寄奉り 新抄格勅符
醍醐天皇 延喜の制 並びに大社に預る 延喜式〔加布良胡明神社〕
〔建久三年 皇太神宮年中行事〕六月十五日
至着 河原木神崎 先祭崎神々 詔刀自刀禰申 その祠云
悪志 赤崎 加布良古ノ明神 並 浦々神達申すと云々〔志陽略誌 十一〕神社門上
加布良胡大明神は 在 安楽嶋村 倭論語云号 志摩大明神これなり
或人云う 志摩國一宮なり この社 前海 謂加村子瀬なり 往古雖も在 社頭地自戦国以来亡失之〔三国地志 八十六〕
加布良胡明神社〇中略
和論語曰
志摩大明神 神託
ます人々空谷に肇有をしりてその心を大空になせ心空なれば天地に通じて心のままなり
按 安楽島に坐す前海を加村子ノ瀬渡と云 是古者 本社の神領なり〔諸国誌草稿〕志摩國答志郡
伊射波神社は答志郡安楽島村字加布良胡に在 境内三百録十三坪
祭神 伊射波止美命 玉柱屋姫命にして 創建年月詳ならず 祭日正月九日 六月七日 陰暦
〔按〕本社は俗に如布良胡明神と称す、但延喜神名式なる粟鳥坐伊射波神社が果して本社なりや否や疑あり、伊射波神社に就ては出口延経の神名帳考證以下前史多く之を皇大神宮別宮伊雑宮と同視す然れども 延喜大神宮式伊雑宮と記し神名式伊射波神社と記して其の記載一致せず、且一は宮にして一は神社なること不審なり 加ふるに大神宮式一座となし神名式二座に作るもの最も疑ふべしとす其の社名の伊射波は伊雑と同じく鎮座の地名を称せること著しく伊射波神社の社地のものと伊射波(伊雑)の地域に属すること推定すべしと雖も
而しても神亀六年の志摩国司の解に粟島神戸と伊雑神戸とを別記せるを見れば 伊雑(伊射波)の地 既に奈良朝に於いて粟島と伊雑とに分れしことを知るべし 而して伊射波神社の粟島に坐せること社名によりて明らかなり伊射波神社は寧ろ伊雑宮とは別社と考ふるを以て至當とせん 但所謂の加布良古明神を以て之に擬するは 地理上首肯し難し
文化年中 鳥羽城主稲垣摂津守深く崇敬し祭祀料として年々玄米十俵を附し造営費の如きも亦寄進にかかりしが維新後其の事止めり一、建築物
本殿 神明造
拝殿
鳥居
燈明一、境 内 八百八十九坪 国有地
附記
当社の安樂鳥の東北字加布良古岬に有り 境内老樹多く三面廻らす海を以てし海岸には絶えず波の花咲きて風光絶佳志摩名勝のーなり一、崇敬者 百三十戸 大正二年十二月現在
一、祭 日
例 祭 六月七日
新年祭 二月
新番祭 十一月一、基本財産 大正三年三月三十一日現在
山林 八町四段四畝二十三歩
銀行預金 壹百九拾円
郵便貯金 六袷銭五厘
三重農工債巻 額面九百五拾圓
【原文参照】
伊射波神社(鳥羽市安楽島町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
志摩国 式内社 3座(大2座・小1座)について に戻る
志摩国(しまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 志摩国には 3座(大2座・小1座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
志摩國 式内社 3座(大2座・小1座)について