糀屋稲荷神社(こうじやいなりじんじゃ)は 創建は推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座 天平時代 称徳天皇の崇敬厚く 慶雲3年(706)社殿の建立となり勅使を使わせられ 神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられます 延喜式内社 播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
稲荷神社(Inari shrine)
【通称名(Common name)】
播州糀屋稲荷神社(ばんしゅうこうじやいなりじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県多可郡多可町中区糀屋434-2
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》稲蒼魂命(うかのみたまのみこと)
《配》若宇賀賣命(わかうかめのみこと)
保食神(うけもちのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・福徳円満
・開運並びに業務繁昌の守護神
・縁結び安産成就
・病気平癒の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
多可町合併10周年記念誌『多可の里風土記~62集落を訪ねて~』〈2015年11月多可町〉に記される内容
【抜粋意訳】
糀屋 (こうじゃ)
字「稲荷山」に鎮座する稲荷神社は、推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座、神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられる。
中世には安田庄の鎮守神だったという。「平家物語」に、源義経を鵯越えに案内した多賀菅六久利がこの荘園の下司職だったと記されている。後白河法皇の寵愛した高階栄子(丹後局)が、同庄の領家だった時代もあった。天福2年(1234)には地頭代官、康永6年(1347)には足利尊氏が社領を寄進。永正元年(1504)には、赤松氏から釣鐘が奉納された。元亀2年(1571)兵火にかかり、天正元年(1573)再建されたが、同3年に別所氏に攻められる。慶長5年(1600)、初代姫路藩主の池田輝政によつて社領を寄進された。
稲荷神社は、本田忠刻に再嫁した千姫が、自らの安産や娘勝姫の安産を祈願した神社として知られる。寛永11年(1634)には社殿、同20年には薩摩杉で造られ、「薩摩堂」と呼ばれた護摩堂を千姫が寄進したという。その社堂は現存しないが、家光によって朱印地が与えられ、代々社領が安堵された。
花屋谷から坂本への坂は、もと「三坂」だったが、千姫の安産を稲荷神社に祈願した使者が護符を持って越えようとした時、安産の知らせを受けたことから「産坂」となったと伝えられる。
旧県社で、今は・花屋・曽我井・安坂・森本・坂本が氏子。境内に大日如来を祀る大日堂がある。背後の山に稲荷の小宮が祀られ、山麓から赤い鳥居が巡らされている。2月初午祭には弓射行事が行われ、8月1日の八朔祭りはダンジリや花火などでにぎわう。秋祭りは、神社奉賛会と祭当番地区によって行われる。かって、稲荷神社には延命寺という別当寺があった。持仏とされる仏像が残っており、千姫関係の文書や棟札などにその名が見える。延命寺は法道仙人開基を伝え、もとは坂本の「クゴ田」にあったが、その後に同社近くに移ったとされる。千姫との関係には、中興秀甫法師の功績があったという。
伝承によれば、稲荷神社の森の南に庄太夫という庄屋があり、その娘が秋祭りの日 行方しれずになった。翌日の夜 神社の大杉の上にいるのを発見。高くてだれも登れなかったが、延命寺の住職が祈祷すると、娘は大杉から静かに降り立った。庄太夫は娘を稲荷神社の巫女とすることを決め、代々その家から巫女を奉ったとか。なお、大石内蔵助の親戚筋にあたり、討ち入りの盟約に参加しながら脱盟した奥野将監定良の墓と伝えられる石塔が墓地にある。
【原文参照】
由緒
人皇33代推古天皇の創立。
天平時代、称徳天皇の崇敬厚く、慶雲3年(706)、社殿の建立となり、勅使を使わせられた。
天福2年(1234)代官中原氏より、また康永6年足利将軍より、灯油田の寄進あり。
慶長5年(1600)、姫路城主池田輝政公より田畑、境内山林を寄進。
寛永11年(1634)、姫路城主本多忠刻公のもとに嫁した千姫は、社堂建立し、安産を祈願するため詣で、督姫を出産。その姫は、備前国岡山城主池田光政公に嫁ぎ、懐胎するや再び当社に祈願し、出生されたのが、岡山城主池田綱政公である。
寛永14年(1637)社領寄進の神社としての折紙を賜わる。
千姫は、御神徳に感謝し、寛永20年(1643)、徳川将軍、池田備前守等一門の武運長久・延命・国家泰平と隆昌の祈願として、薩摩杉一式による護麻堂を奉納し、翌21年(1644)には社殿建立。
慶安2年(1649)、徳川将軍家光公を始め、歴代将軍より御朱印書が寄せられていたが、明治維新によりて上知となり、明治4年(1871)村社、明治30年(1897)県社となる。
2008 兵庫県神社庁HP
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6312052.html
【由 緒 (History)】
由緒
当社は人皇三十三代推古天皇の御代より、御鎮座1400年の歴史を伝え、御祭神は、稲蒼魂大神・若宇賀売大神・保食大神と申し上げます。
天平時代、称徳天皇の崇敬厚く、神護慶雲3年、国内租稲5百を賜わりて、社殿の建立となり、勅使を使わせられました。
天福2年10月時の代官中原氏より、また康永6年2月、足利将軍より、それぞれ灯油田の寄進があり、慶長5年11月、姫路城主池田輝政公より田畑1町3反5畝、境内山林6町1反2畝を寄進された。
寛永11年7月、大阪落城の後、姫路城主本多忠刻公のもとに嫁した千姫は、社堂を建立し、自らの安産を祈願するため詣で、恙なく一女督姫を出産され、その姫は、備前国岡山城主池田光政公に嫁ぎ、懐胎するや再び当社に祈願し、出生されたのが、名声も高き、岡山城主池田綱政公である。斯くによりて、当社は安産の神として、古くから崇められ、寛永14年社領寄進の神社としての折紙を賜わりました。千姫は、奇しく、妙なる御神徳に感謝し、寛永20年4月自からを始め、徳川将軍、池田備前守等一門の武運長久・延命・国家泰平と隆昌の祈願として、薩摩杉一式による護麻堂を奉納し、翌21年には社殿の建立がありました。
かくて慶安2年8月徳川将軍家光公を始め、歴代将軍より御朱印書が寄せられていたが、明治維新によりて上知となり、明治4年2月社格制の村社となる。明治34年4月播州で稀なる県社に昇格し、大正3年3月、神饌幣帛料供進の神社と指定されました。
現今の社殿は、文化12年(1815)、播州織の元祖、飛田安兵衛安治氏の改築によるもので、文化14年に上棟したものである。天に聳ゆる白亜の大鳥居建立、また松の緑も色濃く山水の調和を備えた神苑を設け、あけぼのがさね古代やすらえ作りの、赤い千本鳥居は県内唯一の最多奉納鳥居のお社として、福徳円満の御神徳の至り極まりなく、開運並びに業務繁昌の守護神で縁結び安産成就・病気平癒の神としても有名であります。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・奥宮
・本殿
・幣殿
・拝殿
・〈境内社〉庚申神社(地神様)〈本殿向かって右横〉
《主》猿田彦命
・〈境内社〉東照宮社〈本殿向かって左横〉
・〈境内〉大日堂〈東照宮のすぐ隣〉
・出世稲荷社・木ノ鷹社〈大日堂の横から参道あり〉
〈境内向かって右側(北側)の境内社〉
・〈境内社〉春日社・粟嶋社・荒神社・神祇社
〈向かって右から順に〉
・〈境内社〉春日社
・〈境内社〉神祇社・荒神社・粟嶋社
・粟嶋社
・荒神社
・神祇社
・御神木
・神門
・手水舎
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
天一神社の鎮座地 東徳久(ひがしとくさ)では 平成4年~平成8年にかけて 東徳久遺跡の発掘調査があり 古代製鉄遺跡(炭窯跡)が発見されました 製鉄操業が盛んな地であったことが裏付けられています
明治20年(1887)頃には 北に隣接する平松地区で弥生時代の銅剣が出土して 兵庫県指定文化財となっています 一説に天一神社の御神体とも云い 天一神社の宝剣とされています
讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉の条には 蛇行剣(蛇のようにうねった刃をもつ剣)の出土が 記されていますので 関係性はあると想います
【抜粋意訳】
讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉
昔 近江天皇の御世〈天智天皇 在位668~672年〉
丸部(わにべの)具(そなう)という者が 仲川里にいた この人は 河内国の免寸(とのき)の村人が持っていた劔を買い取った
劔を得て以後 家はこぞって滅び亡くなってしまったそれから後 苫編部(とまみべ)の犬猪(いぬゐ)が かの地の墟〈滅んだ家の跡地〉に圃(はたつくり)〈畑を作り〉をすると 土の中に この劔を得た
土を取り去ると 劔は 廻り一尺(約30cm)ばかり その柄(え)は 朽ち失せていたが その刃は渋(さ)びず 光明は鏡の如くであった
ここに犬猪(いぬゐ)は 怪しんで劔を取り家に帰った すぐに鍛人(かぬち)〈鍛冶〉を招き その刃を焼かせた
その時 この劔は 蛇の如く 伸び縮みして 鍛人は 大いに驚き つくらずに止めてしまった
そこで 犬猪(いぬゐ)は 異劔(あやしきつるぎ)であると 朝廷に献上されたその後 浄御原朝廷(天武天皇の御世)
甲申の年〈天武12年(684)〉七月 曽禰連麿(そねのむらじまろ)を遣わせて 本處〈元の所〉に還し送られた 今は この里の御宅に安置されている
【原文参照】
託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)の条には 天目一命(あまのまひとつのみこと)〈(火を見て片目となる)一つ目の神で 鍛冶の神〉の記載があり やはり製鉄に関する神についての記述だと想われます
゛後に その田は荒れてしまったので 故に荒田村と名付けた゛とある文については
現実的な考証をすると 古代 砂鉄の採集としての鉄穴(かんな)流し タタラ製鉄の際の木材の伐採などによる 流域に大量の土砂が堆積して 田が荒れて 荒田(あらた)か?
【抜粋意訳】
託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)
大海山(おおうみやま)荒田村(あらたむら)
賀眉(かみ)は 川上〈加古川の川上〉にあったので名付けられた 大海と名付けられた所以は 昔 明石郡の大海里の人が到り来て この山の麓に居住した 故に大海山と云う 此処には松が生えている
荒田と名付けられた所以は この處(ところ)に在す神 道主日女命(みちぬしひめのみこと)父(夫)なくして み児を生みましき
その時 盟酒(うけひざけ)を醸(かも)し 田を七町作ると 七日七夜の間に稲が成熟し その米で酒を醸(かも)し 諸神を集めて振る舞うと その御子に養う神〈父神〉に酒を注ぐように命ずると その子は 天目一命(あまのまひとつのみこと)に酒を奉りましたので その父だと知ることとなりました
後に その田は荒れてしまった 故に荒田村と名付けられました
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多可郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天目一神社
[ふ り が な ](あまめのひとつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amame no hitotsu no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛について
天目一箇神は 鍛冶の神とされ
『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶であった゛天津麻羅(あまつまら)゛と同神ともされ 別名も多く 天目一命(あまのひとつめのみこと)とも呼ばれます
神名の゛目一箇(まひとつ)゛とは 鍛冶師は 製鉄の時 片目をつぶり 鉄の色を見て温度を見た事によるとも 鍛冶の職業病として 鉄を打つ火の粉によって片目を失明する゛一つ目(片目)゛の意味であろうとされます
式内社 天目一箇神社(あめのまひとつのかみやしろ)の論社が 多くある「多可町」には ゛鍛冶屋(かじや)と云う 地名があるのも頷けます゛
゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を祀る 播磨國の式内社について
播磨国は 古くから製鉄や鍛冶が行われていたと伝わり 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を信仰する製鉄・鍛冶の拠点に祀られたと考えられます
①播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)
・天一神社(佐用町東徳久)
天一神社(てんいちじんじゃ)は 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神に從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式』播磨國 佐用郡 天一神玉神社(あめひとつかんだまの かみのやしろ)です
天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉
②播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社
式内社 天目一神社は 江戸時代には所在不明となっていました
所在地が不明であった天目一神社について 明治以降に多可郡内の数カ村の神社が名のりを上げました
・天目一神社(西脇市大木町)
天目一神社(あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ)は 天正八年(1580)兵火にあい記録類を失い 江戸時代には社地も不明でした 明治維新の後 当時 惣堂天王社のあったこの地を式内社 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の跡地と定め 鎮守である平野神社も合祀され 大正12年(1923)復興されたものです
天目一神社・平野神社(西脇市大木町)〈天目一箇命を祀る古社〉
・青玉神社(多可町加美区鳥羽)
青玉神社(あおたまじんじゃ)は 伝承では 祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命で 初め三国岳の山頂に祀られていた ある時 鳥羽(とりま)の村人が三国山に狩りに行くと 急に背中が重くなり不思議に思いながら下山した 村はずれで急に背中が軽くなり「背中に乗った神様が降りられた」として社を建てたのが現在の社地と云う
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)〈祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命〉
・稲荷神社(多可町中区糀屋)
糀屋稲荷神社(こうじやいなりじんじゃ)は 創建は推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座 天平時代 称徳天皇の崇敬厚く 慶雲3年(706)社殿の建立となり勅使を使わせられ 神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられます 延喜式内社 播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社です
播州糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)〈創建は推古2年(594)〉
・天目一神社(多可町中区間子)
〈加都良神社 境内社〉
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)は 式内社 加都良神社の境内摂社として祀られています 天目一命は 多可町内では他に 青玉神社(山寄上やまよりかみ) ・青玉神社(鳥羽とりま)・西宮神社(清水きよみず)で主祭神として 大歳金比羅神社(鍛冶屋かじや)・加都良神社(間子まこ)では 摂社として祀られています
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)〈加都良神社の境内摂社〉
・荒田神社(多可町加美区的場)・天目一神社(的場 御田上)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉
〈参考論社〉
・大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)は 往古は 鍛冶の神 天目一命(あまのまひとつのかみ)を奉祀したと推測され 現在も本殿相殿・境内摂社に天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が祀られています 明治44年(1911)在来の大歳神社に〈摂社〉金刀比羅神社〈寛政6年(1794)讃岐琴平宮より勧請〉を合祀し 現社号に改称
大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
③播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)
『新撰姓氏録』に〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔として「菅田首」があり 「菅田氏」が祖神を祀った神社とされています
・菅田神社(小野市菅田町)
菅田神社(すがたじんじゃ)は 鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔とされる「菅田(すがたの)首(おびと)」が祀った神社と云われ 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり当社にも住吉神が祀られていきました
菅田神社(小野市菅田町)〈鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命を祀る〉
・住吉神社(小野市中番町)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 「菅田首(すがたのおびと)」が祀ったとされる 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)が分祀し 保安年間(1120~1123)今の地へ遷座したものとされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり 住吉大社の神領として 住吉三神を配祀し 住吉神社と改称されています
住吉神社(小野市中番町)〈延喜式内社 菅田神社(すかたの かみのやしろ)〉
・山王神社(加東市厚利)
山王神社(さんのうじんじゃ)は 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社である・菅田神社(小野市菅田町)・住吉神社(小野市中番町)は 東條川を挟んで その南北の岸に祀られています 同じく論社とされる当社は そこから東條川を上流に向かって4km程遡った辺りの北岸に鎮座しています
山王神社(加東市厚利)〈延喜式内社 菅田神社の論社〉
・八坂神社(小野市中番町)
八坂神社(小野市中番町)は 当地方に゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族〈砂鉄を採集して武器 農具を作成〉が祀った延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされ やがて農業に転換した里人は 農地に適した現在地〈その後 住吉大社神領となる〉に移住 神社も保安年間(1120~1123年)住吉三神を合祀し移転したと云う
八坂神社(小野市中番町)〈゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族の祭祀した神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR加古川線 本黒田駅から 県道139号経由で西へ約9.1km 車で17分程度
国道427号に゛ひょうご風景100選入選 播州糀屋稲荷神社苑゛と記されいる看板を曲がると直ぐです
糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)に参着
社頭の社号標には゛播州糀屋稲荷神社゛と刻字されています
一礼をしてから鳥居をくぐり抜けて 石灯籠の並ぶ参道を進むと手水舎があり 龍頭から清めの水が出るようになっています
玉垣に囲まれた境内には 神門の前に狛犬が構えています
神門をくぐり抜けます
境内の正面には 拝殿が建てられていて 両脇には境内社が祀られています
向かって右手には 庚申神社(地神様)
向かって左手には 東照宮社
拝殿にすすみます
社殿の向かって 右奥にある朱色の鳥居は 奥宮への参道入口です
奥宮は 本殿の真後ろの山中にあります 写真にもわかり難いですが 山中に鳥居が写っています
拝殿に掲げられている扁額には゛盛徳゛と記され 伊藤明瑞謹書とあります
5歳の時 明治天皇の御前で腕前を披露し「日本明瑞」(明治の明と瑞祥の瑞)の名を賜り 後に伊藤博文の書生となり「伊藤明瑞」を名乗るようになった伊藤 明瑞(いとう めいずい)であろうと想います
これは賽銭箱の彫刻です
このように 細かい彫刻で 手の込んだ賽銭箱は見たことがありません
山車の彫刻などを後付けしたものだろうか?
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道をもどります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 天目一神社について 所在は゛在所分明ならず゛〈所在は不明〉と記しています
ただし諸説があり 次の様に記しています
゛式社記に、糀屋村、〔今 稲荷と稱す〕゛〈現 稲荷神社(多可町中区糀屋)〉
゛一説 大木村にあり゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉
゛古跡便覽に、一説荒田神社是也、社地不知とあり゛〈現 天目一神社(的場 御田上)・加都良神社 境内社 天目一神社〉
゛播磨鑑に、的場村にありといへり゛〈現 荒田神社(的場)・天目一神社(的場 御田上)〉
【抜粋意訳】
天目一神社
天目一は 阿米乃麻比登都と訓べし
〇祭神明らか也
〇在所分明ならず
〇日本紀、〔神代下〕一書曰、天目一箇神爲に作金者、」
倭姫世記云、崇神天皇六年九月、就に於倭笠縫邑、〔中略〕令 齋部氏、率に石凝姥神裔 天目ー筒□裔二氏、更鋳造 鏡劔、以爲 護身御璽、式社記に、糀屋村、〔今 稲荷と稱す〕一説 大木村にあり、」
古跡便覽に、一説荒田神社是也、社地不知とあり、〔今按、荒田神社 父神なれば、相殿も祭り難し〕
播磨鑑に、的場村にありといへり、猶國人に尋ねて一決すべし、
〇神代巻 口决に、天目一箇神社、在に播磨國多可郡と云るは、唯此帳にあるを云るにて、何の證にも成がたし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 天目一神社について 所在は゛今 大木村にあり、゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉と記しています
【抜粋意訳】
天目一(アメノマヒトツノ)神社
今 大木村にあり、〔飾磨縣神社調〕
天津彦根命の子 天久斯麻比止者命を祭る〔新撰姓氏録、延喜式、神代巻口譯、〕此神亦 天麻比止都禰命と云ひ、又 天目一箇神と云ふ、〔新撰姓氏録、古語拾遺〕
上古天照大御神、天窟に隠り坐し時、雜刀斧及鐵鐸を作り仕奉りし神也、〔古語拾遺〕
凡 十一月八日 祭を行ふ〔飾磨縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 天目一神社について 所在は゛大木村 (多可郡日野村大字大木)゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉と記しています
【抜粋意訳】
天目一神社
祭神 天目一箇命
祭日 十一月八日
社格 村社所在 大木村 (多可郡日野村大字大木)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)は 縣社゜に列せられています
【抜粋意訳】
〇兵庫縣 播磨國 多可郡中村大字糀屋村
縣社 稲荷(イナリノ)神社
祭神 倉稻魂命 若宇賀賣命 保食命
創建は推古天皇御宇、當村字土井の後に鎭座せられたうと傳ふ、〔〇明細帳 播磨鑑〕
爾来二百五十年の星霜を経、文徳天皇 天安元年九月十三日 今の地に遷座せらる、正親町天皇元龜年中 兵兵燹の為、社殿悉く灰燼に帰せしが、天正元年十一月再建し、更に寛永十一年七月天壽院本社を再建す、古來曾我井郷五ケ村の産神にして、〔〇播磨鑑 明細帳〕
武將の崇敬厚く、康永十年足利尊氏以來 代々の將軍 及姫 路の城主の崇敬 殊に厚く、德川家光の如きは、慶安二年八月十七日、先規に依り朱印狀を寄せたり、
建物は本殿、拜殿、及神樂殿、祝詞屋あり、文化十二年の建造に係る、
境内は千七十七坪 . (官有地第一種 )を有し、明治三十八年更に、上地林二町九反七畝二十九步境内に編入せらる、社殿は境内の中央に東面して立ち、後方はー丘陵を爲す、前面は平坦にして、樹木鬱蒼として天を蔽ふ、社頭百花交々艶を競ひ四時絶ゆる事なし、西北隅に瀧あり、落葉の瀧と稱す、滔々落下すること丈餘、雌雄二段となりて神池に注ぐ、淨水湛々築島を浮べ、魚鱗悠々、神德の普きに欣舞するが如し。境内神社
春日神社 庚申神社 東照宮社 栗島神社
荒神社 神祇社
【原文参照】
糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について