廣瀬神社(楽寿園内)(ひろせじんじゃ)(らくじゅえんない)は 三嶋大社が 現在地(三島にあったとされる伊豆国の国府の傍)に遷座した時に 伊豆国府から国守が 廣瀨瀬神社を遥拝するために設けた遥拝所との説もあります 三嶋大社の元摂社で「伊豆国四之宮」とされています 一時は 隣接地の浅間神社(伊豆国二之宮)境内に遷座しましたが 昭和27年(1952)に楽寿園が公営公園となった際に園内に再建されました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
廣瀬神社(hirose shrine)(楽寿園 内)(In rakujuen)
(ひろせじんじゃ)(らくじゅえんない)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
静岡県三島市一番町19 楽寿園内
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》倉稲魂命(ukano mitama no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 伊豆国四之宮
・ 三嶋大社 摂社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (history)】
昭和27年(1952)楽寿園が公営公園となった際に園内に再建されます
【境内社 (Other deities within the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)
[名神大 大 小] 式内 小社
[旧 神社名 ] 廣瀬神社
[ふ り が な ](ひろせの かみのやしろ)
[How to read ](hirose no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
廣瀬神社(hirose shrine)(楽寿園 内)の遷座について
廣瀬神社(hirose shrine)は 三嶋大社が 現在地(三島にあったとされる伊豆国の国府の傍)に遷座した時に 伊豆国府から国守が廣瀨瀬神社を遥拝するために設けた遥拝所との説もありますが 三嶋大社の元摂社で「伊豆国四之宮」とされています
現在の鎮座地は 市立公園「楽寿園」です この地は往時より 小浜山と呼ばれて 愛染院(廃寺)・浅間神社・広瀬神社の社寺域であったとされています
明治23年(1980)に 一帯が小松宮の別邸となり 一時は 隣接地の浅間神社(伊豆国二之宮)境内に遷座しました 昭和27年(1952)に楽寿園が公営公園となった際に園内に再建されます
楽寿園は 新富士火山の活動初期(約1万7千年~1万年前)に流れ出た「三島溶岩流」の上部層末端部に位置しています この伊豆半島北部地域の大地には 亀裂やすき間の多い溶岩流の中を流れてきた地下水が あちこちに湧き出しています 楽寿園に鎮座する廣瀬神社(hirose shrine)も自然湧水する小浜池に囲まれています
隣接地の 浅間神社(伊豆国二之宮)の記事もご覧ください
浅間神社(せんげんじんじゃ)は 伊豆国二之宮とされています 古くは三嶋大社の摂社「八所別宮」でした 富士講が賑わいを見せた当時は 富士登山をする三島・伊豆方面の者は 必ず立ち寄り 安全を祈願して出発した と伝えられています 同じ境内敷地内に祀られる「芝岡神社」は 世古本陣から遷座されました
浅間神社(伊豆国二之宮)
『延喜式神名帳(927年12月編纂)』に所載の゛廣瀬神社゛について
社号の゛廣瀬(ひろせ)゛は「川の合流点で 瀬の広き所」の意とのこと
式内社に゛廣瀬神社(ひろせのかみのやしろ)゛を号する社は 三ヶ所あります
①大和國廣瀬郡 廣瀬坐和加宇加賣神社 名神大
②伊豆國田方郡 廣瀬神社
③武蔵國入間郡 廣瀬神社
中でも 廣瀬神社(狭山市広瀬)は 社記によると景行天皇の御代 日本武尊東征の折 当地を流れる入間川が大和国 広瀬河合の地によく似ていることから大和國 廣瀬坐和加宇加乃賣命神社より 若宇迦能賣命を移し祀ったと伝えています
①大和國 廣瀬郡 廣瀬坐和加宇加乃売命神社(名神大 月次 新嘗)(ひろせにます わかうかめのみことの かみのやしろ)の論社
・廣瀬大社(河合町川合)
廣瀬大社(ひろせたいしゃ)は 創建は崇神天皇9年(前89)゛大和盆地を流れる全ての河川が合流する地点に祀られ治水と五穀豊穣を司る゛と由緒にあり 大和川は 鎮座地から 龍田を抜け奈良盆地を下り流れる 『日本書紀』天武天皇4年4月の条には 風神を龍田の立野〈龍田大社〉に 大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀る と記されます
廣瀬大社(北葛城郡河合町川合)〈崇神天皇九年(前八九)鎮座の式内社〉
②伊豆國 田方郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)の論社
・廣瀬神社(伊豆の国市)
広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 古来より 田中郷5ヶ村の総鎮守で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社です 社伝によれば 往古 社殿は 金銀をちりばめ壮大にして 禰宜36人 供僧6坊を置き 神領8町8反大50歩永80貫文を充てられ 隆盛を極めたとされ 三島大社はその昔 下田の白浜から この地に移り その後に三島に遷祀したと伝わります
廣瀬神社(伊豆の国市)
・廣瀬神社(伊豆国四之宮)〈楽寿園 内〉
廣瀬神社(楽寿園内)(ひろせじんじゃ)(らくじゅえんない)は 三嶋大社が 現在地(三島にあったとされる伊豆国の国府の傍)に遷座した時に 伊豆国府から国守が 廣瀨瀬神社を遥拝するために設けた遥拝所との説もあります 三嶋大社の元摂社で「伊豆国四之宮」とされています 一時は 隣接地の浅間神社(伊豆国二之宮)境内に遷座しましたが 昭和27年(1952)に楽寿園が公営公園となった際に園内に再建されました
廣瀬神社(伊豆国四之宮)〈楽寿園 内〉
・満宮神社(函南町)
満宮神社(まんぐうじんじゃ)は 第84代 順徳天皇の著『八雲御抄(yakumo misho)』〈鎌倉時代〉の歌論書に「伊豆国 田方郡(たがたのこおり)」にある鎮守の杜を指す言葉として「田方の杜(たがたのもり)」と称されたとする伝承があります 「田方の杜(たがたのもり)」ですから 田方郡でも 重要な神社として認識されていたであろうことが伺えます
満宮神社(田方郡函南町)
③武蔵國 入間郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)の論社
・廣瀬神社(狭山市広瀬)
広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 社記によると景行天皇の御代 日本武尊東征の折 当地を流れる入間川が大和国 広瀬河合の地によく似ていることから大和國 廣瀬坐和加宇加乃賣命神社より 若宇迦能賣命を移し祀ったと伝えています 『文徳実録』嘉祥3年(850)6月条に官社に列したと記される 延喜式(927年12月編纂)所載 武蔵国 入間郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)です
廣瀬神社(狭山市広瀬)
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
三島駅から徒歩8分程度 南方400mにある「三島市立公園 楽寿園」の入口を目指します
入場券を購入して園内に入ります 案内図を見ながら 小浜池を目指します
庭園内には 溶岩がいたる所で見られます これは新富士火山の活動初期(約1万7千年~1万年前)に流れ出た「三島溶岩流」の上部層末端部との事です
庭園内で 自然湧水する小浜池に着きます
小浜池の中ほどに島があり 木橋で「なかの島」に渡り
さらに石橋を渡る「みや島」に鎮座します
廣瀬神社(hirose shrine)に到着
檜皮葺の本殿が建ち 「広瀬神社」の名札があります
本殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿は小さいながらも確りと造られています
帰り道に 振り返ると 小浜池の中に建つ社殿が眺められましたので 一礼します
楽寿園を後にします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『豆州志稿(zushu shiko)』に記される伝承
『豆州志稿(zushu shiko)』は 江戸時代に編集された伊豆地方の代表的な地誌です
意訳
「 廣瀬神社(hirose shrine)は 四之宮とされていて 倉稲魂命(ukano mitama no mikoto)を祀ります ・・・・・・・・・・・・・
神名帳には「従一位 廣瀬明神」と記されているのは 小浜池 傍の地に 今 甚だ小さい祠に祀られています ですので誤って弁天と呼ばれています 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 選者:秋山章/校訂者:秋山善政[数量]15冊[書誌事項]写本 弘化04年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002883&ID=M2018051109165431627&TYPE=&NO=
三嶋大社が 現在地(三島にあったとされる伊豆国の国府の傍)に遷座した時に 伊豆国府から国守が廣瀨瀬神社を遥拝するために設けた遥拝所との説もありますが 三嶋大社の元摂社で「伊豆国四之宮」とされています
廣瀬神社(hirose shrine)(楽寿園 内)(rakujuen)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
三嶋大社の記事もご覧ください
三嶋大社(みしまたいしゃ)は 古くから伊豆諸島の噴火・造島活動を司る神として 朝廷の尊崇を受ける 伊豆国一之宮です 平安中期以降に伊豆国賀茂郡から現在地に移ったとされ 平安末期には源頼朝が 源氏の再興を願い参詣祈願の後 治承4年(1180)旗挙げを果たし 鎌倉武家政権を樹立し 鎌倉幕府崇敬の神社となり 現在に至ります
三嶋大社(三島市大宮町)〈延喜式内社 名神大社・伊豆國一之宮〉
伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について