平群氏(へぐりうじ)は 「大和王朝を牽引した葛城氏の没落後を継ぎ 大伴・物部氏に先立って朝廷の実権を握った中央実務豪族」 その栄枯盛衰〔平群眞鳥の専横とその滅亡〕は「古代豪族と王権の力関係」を示す典型例「王権を凌駕する豪族は必ず排除される」という歴史的教訓を残し 古代大和王権の権力交代史を理解する上で欠かせない氏族です
平群氏(へぐりうじ)とは
・本拠地
大和國 平群郡(現・奈良県生駒郡平群町)
・祖先
武内宿禰(たけのうちのすくね)の後裔
・氏姓
臣(おみ) → 八色の姓施行(684年)で「朝臣(あそん)」に改姓
平群氏の祖
平群木菟宿禰(へぐりの つくのすくね)
・武内宿禰(たけのうちのすくね)の子とされ 平群氏・同族の祖
・『日本書紀』によれば 履中天皇の御代 国政を担った大臣(おおおみ)
全盛期の平群氏
平群眞鳥(へぐりの まとり)
・平群氏・同族の祖「平群木菟宿禰(へぐりの つくのすくね)」の子
・葛城氏の没落後には 雄略天皇~仁賢天皇の4朝〈雄略朝・清寧朝・顕宗朝・仁賢朝〉の大臣(おおおみ)を歴任し 一時は朝廷の実権をほぼ掌握して 平群氏の全盛を築いた
――しかし――
専横と失脚
・仁賢天皇の崩御498年(仁賢天皇即位11年8月)後 自らを国王のごとく振る舞い 邸宅を王宮のように造営するなど専横
・天皇家を凌ぐ存在感を持ったため恐れられた
平群氏の嫡流の滅亡(498年)
・平群真鳥(へぐりの まとり)の子 平群鮪(へぐりの しび)が 小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせわかささぎのすめらみこと)〈即位前の武烈天皇〉の怒りを買い 誅殺(仁賢天皇即位11年8月)される
・大伴金村連が 即位前の武烈天皇に「眞真鳥(まとり)の賊(あた)を撃つべき 頼まれれば 誅殺いたしましょう」と讒言し 498年(仁賢天皇即位11年)冬11月11日 平群真鳥(へぐりの まとり)は誅殺されます
・一族は皆殺しにされたと伝わる
〔『日本書紀』「小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせわかささぎのすめらみこと)の段」 に記される「逸話」〕
国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
平群鮪(へぐりの しび)は 小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせわかささぎのすめらみこと)〈即位前の武烈天皇〉が 婚約していた影媛(かげひめ)(物部麁鹿火の娘)と関係を持ったため 武烈天皇は 鮪(しび)と影媛(かげひめ)の関係を知って激昂していたと記録される
・『日本書紀』には
平群氏〔平群眞鳥(へぐりの まとり)〕が 海柘榴市(つばいち)で官馬〈諸国の牧(御牧・官牧)から貢上された朝廷保有の馬〉を管理していたことが記録される
・『日本書紀』には
平群眞鳥(へぐりの まとり)は 臨終の際 産地を列挙して「塩」を呪ったが 敦賀(角鹿)だけ呪い忘れたため 以後「天皇の食する塩は敦賀産」となったと記録される
平群氏の滅亡の意義
・平群氏の滅亡(498年)は
◇ 大伴氏と物部氏による権力二大勢力時代の幕開け
◇ 後の蘇我氏台頭の前提条件として重要な局面 平群氏滅亡は のちの蘇我氏台頭への前段階とも位置づけられる
・武烈天皇か゛天皇に即位の時 大伴金村連を大連としました
・日本古代史の権力移行を理解する上で「葛城氏 → 平群氏 → 大伴・物部氏 → 蘇我氏」という流れの一環に位置づけられる
平群氏の嫡流 滅亡後
平群氏の嫡流は絶えたとされるが 氏族自体は消滅せず
平群氏の一部は地方に勢力を残し 在地豪族として存続したとみられる
『三代実録』貞観三年(861)条には 平群郷に居住する「味酒首文雄」らの名が見え 平群氏系統の人々が依然として存在していたことがうかがえる
奈良時代以降も官人を輩出 有名なのは
平群広成(へぐりの ひろなり)
・生年不詳~753年没(天平勝宝5年)
・遣唐使の判官として入唐
・帰途に難船し漂流 チャンパ王国(ベトナム中部)などを放浪
・日本人で最も広い世界を知った知識人とされる
・朝廷から重用され 最終的に参議に昇進
平群氏族の性格と歴史的位置づけ
・「臣(おみ)」姓は 大王(天皇)と深い関係を持つ実務豪族に与えられる姓の格式
・平群氏は 大王権の政治・軍事を実際に担う中枢氏族であり 地方支配豪族というより「中央官僚貴族」の性格が強い
地名と在地性
・大和國の「平群」は 古代大和における交通の要衝
・大和盆地北東部にあり 飛鳥・難波方面への往来に適した立地
・氏族名と地名の一致は 平群氏が在地豪族として根を持ちながら中央で活動したことを示す
・又 諸国に存在する地名「平群(へぐり)」の存続自体が 豪族の記憶を 現在も地域に刻み続けています
信仰と式内社
『延喜式神名帳』には 平群氏関連の式内社が記されています
大和國平群郡には・平群石床神社・平群神社五座・平群坐紀氏神社などが存在し 氏族の信仰基盤を伝えています また伊勢国員弁郡の平群神社(現三重県桑名市志知)は 平群氏の祖 平群木菟宿禰(へぐりの つくのすくね)を祀り 大和からの移住伝承を物語ります
『延喜式(えんぎしき)』は 平安時代中期に編纂された 格式(律令の施行細則)で
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
平群氏は 平安時代には 国家の中枢氏族ではなくなっていましたが 平群氏の氏神が『延喜式(えんぎしき)』に選定されるのであれば 未だに平群氏が在地豪族として一定の力があったのであると推定されます
これらの社は平群氏の在地性 および後裔の存在を示す資料といえます
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載のある神社で社号に「平群(へくり)」の名を持つ式内論社について
延喜式内社 大和國 平群郡 平群石床神社(大 月次 新嘗)(へくりの いはとこの かみのやしろ)
・石床神社 旧社地(平群町越木塚)
〈旧鎮座地〉石床神社は 大正13年(1924)旧社地より 現在地に遷座しました〈境外摂社 素盞嗚神社の境内地(分霊社 消渇神社の境内奧に鎮座)であった場所〉
石床神社 旧社地(いわとこじんじゃきゅうしゃち)は 当初から本殿や拝殿はなく 崖面に露頭した高さ約6m 幅10数mの巨大な「陰石(いんせき)」を 御神体とする『三代實録』平群石床神・『延喜式』大和國 平群郡 平群石床神社〔大月次新嘗〕(へくりの いはとこの かみのやしろ)です 大正13年(1924)現在地に遷座しました
石床神社 旧社地〈『三代實録』平群石床神『延喜式』平群石床神社〔大月次新嘗〕〉
・石床神社(平群町越木塚)
延喜式内社 大和國 平群郡 平群神社 五座(並大 月次 新嘗)(へくりの かみのやしろ いつくら)
・平群神社(平群町西宮)
平群神社(へぐりじんじゃ)は 『興福寺官務牒疏(1441年)』に「平群大明神」と記載以来 延喜式内社 大和國 平群郡 平群神社 五座〔並大月次新嘗〕(へくりの かみのやしろ いつくら)の論社とされ 五座については 平群木菟宿禰の裔に平群臣・佐和良臣・馬御樴連・韓海部首・味酒首等があり この祖神を祀ったとする説があります
平群神社(生駒郡平群町西宮)〈『延喜式』平群神社五座〔並大月次新嘗〕〉
延喜式内社 大和國 平群郡 平郡坐紀氏神社(名神大 月次 新嘗)(へくりにます きのうじの かみのやしろ)
・平群坐紀氏神社(平群町上庄)
・平群氏春日神社(平群町椿井)
〈『平群町史』によれば 旧鎮座地と推定 〉
延喜式内社 伊勢國 員辨郡 平群神社(へくりの かみのやしろ)
三重県桑名市にも 式内社の平群神社(旧郷社)があり 平群氏祖の平群木菟宿禰(へぐりの つくのすくね)を祀っています
又 大和から移住した平群氏の痕跡を伝えています
・平群神社(桑名市志知)
平群神社(へぐりじんじゃ)は 平群氏族の祖神 平群木兎宿禰(へぐりつくのすくね)を祭神とする 延喜式内社 伊勢國 員辨郡 平群神社(へくりの かみのやしろ)です 背後の平群山は古代神奈備の遺跡で 境内奥には日本武尊の足洗池の跡と伝えられる平群池があり 古代からの息吹を感ずる場所に鎮座します
平群神社(桑名市志知)〈『延喜式』平群神社〉