速谷神社(はやたにじんじゃ)は 正史上に初見するのは古く『日本後紀』弘仁2年(811)7月 速谷神〈速谷神社〉と伊都岐嶋神〈厳島神社〉が名神例に預かったと記されます 古代 神祇官〈朝廷〉から毎年四度の幣帛を受ける官幣大社で 安藝一之宮でしたが 厳島神社が平安末期から平氏〈平清盛公〉に崇敬されるにつれて 衰頽し 安芸国二之宮と称されるようになっていったとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
速谷神社(Hayatani shrine)
[通称名(Common name)]
速谷さん(はやたにさん)
【鎮座地 (Location) 】
広島県廿日市市上平良308-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》飽速玉男命(あきはやたまおのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・先導の神 交通安全の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・国幣中社
・安芸国総鎮守
・別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
速谷神社
御祭神 飽速玉男命 一座
御由緒
御祭神は 天孫降臨の三十二随神の内 天湯津彦命五世の孫で 今を去る千八百有余年前 即ち十三代成務天皇の時 安藝国造を賜い 延命招福 農耕殖産 往来の便宜の基礎を固められた国土開拓の祖神であり 安藝国総鎮守で 交通安全 殖産興業 延命招福の守護神と称えられております古くは 延喜式内名神大社で 旧国弊中社でありました
現在は 神社本庁所属の別表神社であります境内地 二万二千平方米
境内社 岩木神社 稲荷神社現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
創立年代は不詳なれど、上古より鎮座の古社である。
当社伝記に「天孫降臨ノ神卅二神ノ内、天湯津彦命五世ノ孫、飽速玉命、則チ此神ナリ。旧事記ニ曰ク、天湯津彦命ハ安芸国造等ノ祖也。国造本記ニ曰ク、阿岐国造ハ志賀穴穂(成務天皇)朝、天湯津彦命五世ノ孫、飽速玉命定賜国造云々」と記述され、
御祭神は 人皇十三代 成務天皇朝、安芸国造に任ぜられ当国一円を統べ給い、皇化を布き国土開拓の祖神である。
当神社が正史上に初見するのは『日本後紀』の弘仁2年(811)7月、速谷神と伊都岐島神が名神例に預かったことであり、次いで『三代実録』の貞観元年(859)正月、伊都岐島神と速谷神を従四位下に進め、同9年10月に従四位上に進められている。
延長5年(927)の『延喜式』の神名帳には「佐伯郡二座(並大)、速谷神社(名神大、月次、新嘗)、伊都岐島神社(名神大)」とあり、四時祭の祈年祭に神祇官の祭る「奠幣案上神」304座の内に預かり、臨時祭の名神祭神285座の内に加えられており、中国、九州で唯一の延喜式官幣大社として殊遇を受けた。
降って承平5年(935)海賊調伏祈祷13社の内に加えられ、天慶3年(940)正四位下に昇叙された。
その後、伊都岐島神社(厳島神社)が平家一門の信仰を集め隆盛したのに対し衰退の途を辿り、中世には厳島神社の社領が平良荘にも及び、その社領内に鎮座する関係で当神社は厳島兼帯7社の1社となった。
文明11年(1479)には厳島神社神主、桜尾城城主藤原教親が梵鐘を奉納するなど桜尾城主藤原氏も代々奉祀して社領も寄進し、年五度の祭祀は盛大に執行された。天文10年(1541)には大内義隆が太刀一腰と神馬1頭を寄進、さらに永禄6年(1563)には毛利隆元が立願のため御湯立七年を進めており、信仰崇敬は大なるものがあった。
社領については天文16年(1547)の尊海文書(当社蔵)によれば、当社修復のため大願寺尊海が田地1町1反、鐘撞料2反余を充てており、同20年の毛利家寄進の厳島神社社領中に当神社の修理免として平良庄講丸内に4石、灯明銭として山里郷納銭内に3貫956文があった。また、御祭事に分米27石7斗5升があったことが知られる。
降って広島藩主 浅野光晟は慶安元年(1648)藩費を以って社殿を造営、以来、藩の篤い崇敬を受けている。
社名は中世に至って速田大明神と称されるようになったが、明治6年、旧名に復して速谷神社と改称、郷社に列した。
同8年には有栖川熾仁親王御染筆の扁額奉納、大正13年に国幣中社に列格した。戦後は神社本庁の別表神社となる。昭和61年春には不慮の災火により本殿ほか5棟の社殿を灰燼に帰したが、同63年には優雅で荘厳なる新社殿が竣工した。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・岩木神社《主》岩木翁神
・稲荷神社《主》宇迦廼魂神
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉に記される伝承
811年 安藝国 速谷神〈速谷神社〉と伊都岐嶋神〈厳島神社〉が名神大社に列せられています
【抜粋意訳】
巻廿一
弘仁 二年(八一一)七月 己酉〈十七日〉の条
○己酉 安藝國 佐伯郡 速谷神。伊都岐嶋神。並預に名神例。兼四時幣
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申 京畿七道の諸神に進む階(くらい)を及ひ 新(あらた)に叙つ 惣て 二百六十七社なり
奉授に 淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
・・・・・
・・・・・
・・・・・安藝國
正五位下 伊都岐嶋神(いつきしまのかみ)
從五位上 速谷神(はやたにのかみ) 並びに 從四位下
從五位下 多家神(おほいえのかみ)に 從五位上
【原文参照】
【抜粋意訳】
巻十四 貞觀九年(八六七)十月十三日〈戊寅〉の条
○十三日〈戊寅〉勅め加に松尾神社に封二戸を
授に 安藝國 從四位下 伊都岐嶋神 速谷神(はやたにのかみ)に 並に從四位上
從五位上 安藝都彦神(あきつひこのかみ)に 正五位下
正六位上 生石神に 從五位上
正六位上 伊都嶋宗形小專神 樌神に 並に從五位下
出羽國の長安寺預に之を定額に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大 社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・速谷(はやたにの)神社 一座 安藝國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)安芸国 3座(並大)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)佐伯郡 2座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 速谷神社(名神大 月次新嘗)
[ふ り が な ](はやたにの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hayatani no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
阿岐国造(あきのくにのみやつこ)について
阿岐国造は 安藝國(あきのくに)一帯を治めていた地方豪族と考えられていて 天皇家とは血縁のつながりをもたないとされます
『先代旧事本紀 國造本紀』には 速谷神社の御祭神 飽速玉命(あきはやたまのみこと)を 阿岐(あきの)国造(くにのみやつこ)の祖と記しています
『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806~906)頃の成立〉に記される伝承
【抜粋意訳】
先代旧事本紀 巻第十 國造本紀
阿岐(あきの)国造(くにのみやつこ)
志賀の高穴穂の朝〈第13代 成務天皇の時代(131-190)〉
天湯津彦命(あまのやづひこのみこと)五世の孫 飽速玉命(あきはやたまのみこと)を 定め賜ふ 国造(くにのみやつこ)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(927年12月編纂)』記載 官幣大社 安藝國 速谷神社について
安藝國は 大和朝廷にとって 瀬戸内海航路を含め 極めて重要な拠点を占めています
しかし 式内社の数は他国と比較しても少なく 僅かに3社を数えるのみで 朝廷の影響力が 安藝國の隅々までは及んでいない事を伺わせます
ただ3社の内 速谷神社は「月次新嘗」とあり 神祇官〈朝廷〉から じきじきに幣帛(供物)を受ける官幣大社であり
残る2社〈伊都伎島神社(厳島神社)・多家神社〉は 各国の国司から幣帛(供物)を受ける国幣大社です
しかも3社〈・速谷神社・伊都伎島神社(厳島神社)・多家神社〉は いずれも名神大社〈官幣・国幣大社のなかでも特に霊験あらたかな神社〉に列していて 朝廷から厚く保護されていることも 同時に伺えます
遠国に鎮座する 官幣大社〈律令時代〉について
官幣社とは 神祇官より奉幣を受ける神社
国幣社とは 国司より奉幣を受ける神社
それぞれに大・小の格が定められています
律令時代当初は 全ての官社〈式内社〉が 神祇官から直接 奉幣を受けていた
しかし「遠国〈都から遠い〉の神社」は その地へ行く時間と労力と費用がかかり やがて国司を代理でたてるようになり 官幣社・国幣社の別ができました ただし 遠国であっても重要な神社は官幣社となっていました
古代 神祇官〈朝廷〉から 毎年四度の幣帛を受ける官幣大社は 全国に304座198所ありましたが その鎮座地は 畿内に集中して 律令制の「遠国〈都から遠い〉」と呼ばれた地域の官幣大社は わずかに5社のみです
この5神社は 「遠国〈都から遠い〉」でありながら いずれも皇室が重要視していた大社で 都から西の「遠国〈都から遠い〉」では 唯一 速谷神社が含まれていることが 大きな意味を持ちます
詳しくはそれぞれの記事をご覧ください
1.東海道 武蔵国・氷川神社(名神大 月次 新嘗)(ひかは かみのやしろ)
・大宮氷川神社(さいたま市)
大宮氷川神社(おおみや ひかわじんじゃ)は およそ2400年前から遷座せずにこの地に鎮座する勝運に添える太古の社です 古代 出雲族がこの地に移住して創建した神社です 現在の「大宮」(埼玉県)の地名は 「大いなる宮居」と氷川神社を称えたことに由来していると云われます
大宮氷川神社(さいたま市大宮区高鼻町)〈武藏國一之宮〉
2.東海道 安房国・安房坐神社(名神大 月次 新嘗)(あはのまします かみのやしろ)
・安房神社(館山市)
安房神社(あわじんじゃ)は 日本神話「天の岩戸」では 天太玉命〈忌部氏の氏神〉が 天照大御神の出現を願い 祭祀を執り行いました 故に 古代の大和朝廷では 忌部氏が・祭祀に必要な鏡や玉・神に捧げる幣帛や織物・威儀物の矛や楯など武具・社殿の造営などを司っていました 日本における全ての産業の総祖神としても崇敬されています
安房神社(館山市大神宮)〈延喜式内社 名神大社・安房国一之宮〉
3.東海道 下総国・香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや)
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です
香取神宮(香取市)下總國一之宮
4.東海道 常陸国・鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや)
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
鹿島神宮(かしまじんぐう)は 武甕槌大神(たけみかづちのおほかみ)を祀る鹿島神社〈全国に約600社〉の総本宮です 『常陸国風土記713AD.』には 香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)・『延喜式神名帳927 AD.』には 名神大社 鹿島神宮(かしまの かむのみや)と記されています
鹿島神宮(鹿嶋市宮中)〈延喜式内社名神大社・常陸國一之宮〉
5.山陽道 安芸国・速谷神社(名神大月次新嘗)(はやたにの かみのやしろ)
・速谷神社(廿日市市上平良)
速谷神社(はやたにじんじゃ)は 正史上に初見するのは古く『日本後紀』弘仁2年(811)7月 速谷神〈速谷神社〉と伊都岐嶋神〈厳島神社〉が名神例に預かったと記されます 古代 神祇官〈朝廷〉から毎年四度の幣帛を受ける官幣大社で 安藝一之宮でしたが 厳島神社が平安末期から平氏〈平清盛公〉に崇敬されるにつれて 衰頽し 安芸国二之宮と称されるようになっていったとされます
速谷神社(廿日市市上平良)
古くは 安藝國の一之宮であった 速谷神社
古代 朝廷から毎年四度の幣帛を受ける官幣大社は 全国に304座198所ありましたが その鎮座地は 畿内に集中して 律令制の「遠国〈都から遠い〉」と呼ばれた地域の官幣大社は わずかに5社で その中でも 速谷神社は 中国九州地方唯一の官幣大社として 山陽道でも随一の神格を認められていたことになります
こうしたことから 速谷神社は 古くは安芸国の一之宮であったとされ 厳島神社が 平安末期から平氏〈平清盛公〉に崇敬されるにつれて 衰頽し 安芸国二之宮と称されるようになっていったとされます
速谷神社は 〈古くは 山陽道でも随一の官幣大社として神格を認められ 安芸国の一之宮であり 厳島神社が 平安末期から平氏に崇敬されるにつれて 安芸国二之宮と称されるようになった〉その後 衰退の途をたどることになります
関ヶ原合戦での功績により 安芸と備後の大守となった福島正則は 社領を没収し 江戸初期には 大いに荒廃していました
福島氏の改易後 正保三年(1646)広島藩主 浅野光晟は 『神祇宝典』を編纂中であった徳川御三家筆頭尾張 徳川義直公から 延喜式官幣大社の速谷神社について尋ねられ 急ぎ家臣に調べさせ 所在や由緒を確認したうえで 二年後に 藩費で社殿を造営し 以来 藩の崇敬がつづき 現在に至ります
・速谷神社(廿日市市上平良)
速谷神社(はやたにじんじゃ)は 正史上に初見するのは古く『日本後紀』弘仁2年(811)7月 速谷神〈速谷神社〉と伊都岐嶋神〈厳島神社〉が名神例に預かったと記されます 古代 神祇官〈朝廷〉から毎年四度の幣帛を受ける官幣大社で 安藝一之宮でしたが 厳島神社が平安末期から平氏〈平清盛公〉に崇敬されるにつれて 衰頽し 安芸国二之宮と称されるようになっていったとされます
速谷神社(廿日市市上平良)
現在の安芸国(aki no kuni) (広島県)の一之宮
・厳島神社(廿日市市)安芸国一之宮
厳島神社(いつくしまじんじゃ)は 推古天皇元年(593)佐伯鞍職(さえきのくらもと)によって創建された 延喜式内名神大社(927)安囈国 佐伯郡 伊都伎嶋神社(いつきしまの かみのやしろ)です 平成八年(1996)世界文化遺産に登録された社殿群〈国宝及び重要文化財に指定〉は 仁安三年(1168)太政大臣 平清盛公によって造営された寝殿造りの様式が礎となっています
嚴島神社(廿日市市宮島町)〈安芸国一之宮〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
宮島SAから ETC出口から約2km R433号沿いに鳥居が建ちます
一礼をして 社頭の鳥居をくぐります
速谷神社(廿日市市上平良)に参着
参道を進むと楼門があり 楼門を抜けると手水舎があり 清めます
そこから先 境内地は一段高くなり 注連縄の張られた 神門が構えています
社殿は 昭和61年春に不慮の災火により焼失 同63年に 新社殿が竣工ししました 拝殿の左右に 直会殿 祓殿を備えた荘厳な造りです
拝殿にすすみます
拝殿には 神酒が奉献されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
直会殿の前には 阿岐國造 飽速玉男命 と刻まれた石碑があります
本殿の左右には 境内社が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『藝州嚴島圖會(げいしゅういつくしまずえ)』〈天保13 [1842]〉に記される伝承
速田社(はやたしゃ)の図繪は 現在と大差なく 境内社の岩木神社《主》岩木翁神は二町ばかり離れた場所にあったらしい
祭神については 〈三神を嚴島(いつくしま)に先導(みちびき)給われた〉霊鳥(れいう)とする説 阿岐國造(あきのくにのみやつこ)飽速玉命(あきはやたまのみこと)とする説 を記しています
【抜粋意訳】
速田社(はやたしゃ)の図繪
速田大明神社(はやただいみょうじんしゃ)
佐伯郡平良村に鎮座
祭神(さいしん) 霊鳥(れいう)
社伝に云く 上古(じょうこ)三神(さんしん)伊都岐島(いつくしま)に臨幸(りんこう)ましましける時 霊鳥(れいう)部曲(ぶきょく)に侍(はべ)りけるが 御鎮座(ごちんざ)の後(のち) この平良(へら)の郷(さと)に とび去(さり)し残 土人(どじん)岩本某(いわもとそれがし)といふ おきな これを一社(いっしや)を勧請(かんじょう)せりといへり 案ずるに日本紀(にほんぎ)に
神武天皇(じんむてんのう)大和宮(やまとのみや)の逆徒(きゃくと)を退治(たいじ)したまへりし時 八咫烏(やたからす)先導(みちびき)のことなり 皆は この社(やしろ)に祭(まつ)る所(ところ)の霊鳥(れいう)も三神を嚴島(いつくしま)に先導(みちびき)たてまつりしなるべし
かくて考(かんがふ)れば 速田(はやた)は 八咫(やた)の詞(ことば)の転(てん)ぜるなや
古文書(こもんじょ)には 速谷(はやたに)とあり 故にまさの説(せつ)には
旧事記(くじき)に 阿岐國造(あきのくにのみやつこ)飽速玉命(あきはやたまのみこと)となりて 速玉速谷言左近(はやたまはやたにこと)し もしくは この國造(くにのみやつこ)を祭(まつ)りしならんといへれと 社伝(しゃでん)にいふところ上件(うえのくだり)の如(ごと)くなれをその是非(ぜひ)今(いま)は求めず〇延喜神名帳(えんきしんみょうちょう)曰 安藝國佐伯郡 速谷神社 名神大 月次(つきなみ)新嘗(にひなめ
〇三代実録(さんだいじつろく)曰 貞観元年春正月廿七日甲申 安藝國 従五位上 速谷神社 叙従四位上
〇類聚国史(るいじゅうこくし) 月次祭之部曰 弘仁 二年七月 安藝國 佐伯郡 速谷神 伊都岐嶋神 並(とも)に預(あづかる)に名神例幣(みょうじんのれいへい)を
〇延喜 臨時祭式(りんじさいしき)曰 安藝國 三座 速谷 嚴島 多家
例祭十一月中の申日(さるのひ)恵比寿(えびす) 瑞垣(みづがき)の内(うち)
〇岩本権現(いわもとごんげん)社 御社より二町あまり坤(ひつじさる)のほう林中(はやしのなか)にあり 平良(へら)の地主(ぢぬし)岩本翁を崇(あが)め祭(まつ)る
〇以上二所末社あり
〇鐘楼(しょうろう)文明年中の鐘を懸く
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
速谷神社(名神大 月次新嘗)
速谷は 波夜多爾と訓べし
〇祭神 霊鳥 社説
〇上平良村に在す 今 速田明神と称す 社説
〇当国 二宮也 藝州志
〇式三 臨時祭 名神祭 二百八十五座 中略 安藝國 速谷神社 一座藝州志云 至に今 厳島造営之日 地御前 速田神社 共改に造之 然即 速田為に速谷 多家為に地御前也 果為 必者乎
厳島図絵云 按るに日本紀 神武天皇 大和國の逆徒を退治し給へりし時 八咫烏先導の事あり されば此社に祭る所の霊鳥も 三神を厳島に先導たてまつりしなるべし 又の説には 舊事紀に 阿岐國 飽速玉命とありて 速玉速谷と近し 若しくは国造を祭りしならんと云れど 社伝にいふ處上仲の如くなれば 其 是非定めがたし
神位 名神
日本後紀 弘仁 二年(八一一)七月 己酉〈十七日〉の条
○己酉 安藝國 佐伯郡 速谷神。伊都岐嶋神。並預に名神例。兼四時幣日本三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申 安藝國 從五位上 速谷神(はやたにのかみ)從四位下
巻十四 貞觀九年(八六七)十月十三日〈戊寅〉の条
○十三日〈戊寅〉授に 安藝國 從四位下 速谷神(はやたにのかみ)に 並に從四位上長寛勘文云 天慶三年二月一日丁酉 安藝國 速谷神 正四位下
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
祭神については 不詳としています
【抜粋意訳】
速谷神社(名神大 月次新嘗)
祭神
神位
日本後紀 弘仁 二年(八一一)七月 己酉〈十七日〉の条
○己酉 安藝國 佐伯郡 速谷神。伊都岐嶋神。並預に名神例。兼四時幣日本三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申 安藝國 從五位上 速谷神(はやたにのかみ)從四位下
巻十四 貞觀九年(八六七)十月十三日〈戊寅〉の条
○十三日〈戊寅〉授に 安藝國 從四位下 速谷神(はやたにのかみ)に 並に從四位上長寛勘文云 天慶三年二月一日丁酉 安藝國 速谷神 正四位下
祭日 二月二ノ申日 十一月二ノ申日
社格 郷社
所在 上平良村(佐伯郡平良村大字上平良)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
祭神に諸説があると 記されています
【抜粋意訳】
廣島縣 安藝國 佐伯郡平良村大字上平良
郷社 速谷(ハヤタニノ)神社
祭神 飽速玉之男(アキハヤタマノヲノ)神
神社覈録 厳島図會に「霊鳥」 古事記傳に「瀬織津姫」 神名帳考証に「速素戔嗚尊」 神祇志料に「多支都比咩乃命」とあり
国造本紀に「阿岐国造 志賀高穴穂朝 天湯津彦五世孫 飽速玉命 定に賜阿岐国造」とあり 創建年代詳ならず
嵯峨天皇 弘仁二年七月己酉 名神の列に列し 四時奉幣に預らしめ(日本後紀 類聚国史)延喜の制 名神大社に列し 月次新嘗の幣に預る 按に延喜式 月次新嘗の祭は践祚大嘗の大祭に 亜ぐを以て 諸国の社この幣に預るは希なり(藝藩通志)往時は二宮 速田大明神と称せり(厳島道芝記 厳島図會 神社覈録 藝備國郡志 藝藩通志 神名帳考証 古事記傳 或いはいふ 昔 市杵島姫神 当国に鎮座の時 霊鳥従ひ来り当村に留る 時に岩木翁なるもの村の主たり 霊鳥のために十歩の地をかし以て棲ましむ 後社を建て その鳥を祭る 今 境内社 岩木神社は即ち岩木翁を祭れるものなりと(厳島道芝記 厳島図會)藝蕃通志 亦この伝説を記し 後附記して曰く
「この社 飽速玉命を祭りしならむか 速玉速谷速田國音相以てれば転用せしなるべし これ安藝国造なれば 朝廷祭典を重んじ位階を進め給ふも宣なり 若し然らば まづ国造を祭りて後 霊鳥を配祭せしも知るべからず」と又 地名辞書に曰 速田(ハヤタ)大明神と云う 伊都岐島を一宮と云ふに比し 二宮と見え
三代実録に「貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条○廿七日甲申 安藝國 從五位上 速谷神(はやたにのかみ)從四位下
巻十四 貞觀九年(八六七)十月十三日〈戊寅〉の条○十三日〈戊寅〉授に 安藝國 從四位下 速谷神(はやたにのかみ)に 並に從四位上」とあり朱雀天皇 天慶三年二月一日丁酉 安藝國 速谷神 正四位下を授く
承平年中海賊の事を祈り奉れる報寶なり(長寛勘文)
厳島古文書によるに 村内に速田修理免と称す地あり(社伝には 佐伯高宮二郎に亙りて六萬石ありきといふ)
昔は大社にして二十日市 櫻尾城主 藤原氏世々奉祀せしが 福島氏の時 社領を没収してより 殿字頽圯せしを 後光明天皇 慶安元年 藩主浅野氏 社殿を造営し 東山天皇 元禄十四年十一月 又これを再営せり(通志)神體は巌とす
厳島道芝記にも玉殿の内 巌にて坐ますといーり 明治六年郷社に列す・・・・・
・・・・・
【原文参照】
速谷神社(廿日市市上平良)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
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安藝国(あきのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 安藝国 3座(並大)の神社です
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