隼神社(はやぶさじんじゃ)・梛神社(なぎじんじゃ)は 一つの境内に二社が並立する神社です 隼神社は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 京中坐神三座の内 唯一現存する式内社で 大正7年(1918)現在地に遷座した古社です 梛神社は 貞観11年(869)の創建 京都祇園の八坂神社の旧跡にあたり「元祇園梛神社(Motogion Nagi Shrine)」と呼ばれています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
・隼神社(Hayabusa Shrine)(はやぶさじんじゃ)
・梛神社(Nagi Shrine)(なぎじんじゃ)
[通称名(Common name)]
〈梛神社(Nagi Shrine)〉= 元祇園梛神社(Motogion Nagi Shrine)
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
・隼神社(Hayabusa Shrine)
《主》建甕槌神(Takemikazuchi no kami)
《配》経津主神(Futsunushi no kami)
・梛神社(Nagi Shrine)
《主》素盞嗚尊(Susanowo no mikoto)
《配》宇賀御魂命(Ukanomitama no mikoto)
伊弉冉命(Izanami no mikoto)
誉田別尊(Homutawake no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・厄除け Prayer at an age considered a milestone in life
・縁結び Deepen connections and intimacy with people
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・隼神社(Hayabusa Shrine)
創建は不詳
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に所載の「左京四条坐神一座 月次新嘗 隼神社」の大社
大正7年(1918)に現在地の梛神社境内に遷座
・梛神社(Nagi Shrine)
社伝では
貞観11年(869)3月朔日に京の都に疫病が流行したとき 播磨国広峰(広峰神社)から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際 牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛(ナギ)の林中に置いて祀ったのが創祀
後 牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際 当地の住民が花飾りの風流傘を立て 鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい これが祇園会の起源である と伝えています
【由 緒 (history)】
梛(なぎ)神社 (元祇園社 もとぎおんしゃ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を主神とし、宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと),誉田別尊(ほんだわけのみこと)などを配祀する。
社伝によれば貞観(じょうがん)11年(869)京の都に疫病が流行したとき、牛頭天王(ごずてんのう)(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰(はりまのくにひろみね)(現在の兵庫県姫路市)から勧請(かんじょう)して鎮疫祭(ちんえきさい)を行った。この時その神輿(みこし)を梛(なぎ)の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりであるという。後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀(せんし)したとき 当地の住人は花を飾った風流傘(ふうりゅうかさ)を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。これが後の「祇園会(祇園祭)ぎおんえ」の起源と伝えられる。また、当社は八坂神社の古址(こし)にあたり、元祇園社と呼ばれる。
維新の頃は田圃の中の一小祠であったが、明治7年(1874)と昭和4年(1929)の復興を経て現在に至る。
境内の 隼(はやぶさ)神社は、
建甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)を祀り、「延喜式(えんぎしき)神名帳」にも載る大社であり、大正7年(1918)蛸薬師坊城(たこやくしぼうじょう)からこの地に移された。梛神社とともに厄除け、疫病払いの神である。例祭は梛神社が5月の第3日曜日。隼神社が11月17日である。
京都市
境内案内立札より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
東側の境内入り口付近に鎮座
・田中社・上川稲荷社
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
式内大社の隼神社(延・大 月次新嘗)は もとは嵯峨天皇の後院の一つである朱雀院(スザクイン)〈朱雀大路西・三条南・四条北に位置して 右京四条一坊東の8町を占めたと伝わる〉の西南隅に石神(イワカミノ)明神と並んで祀られていたと伝
旧蹟の所在地 中京区壬生御所ノ内町〈石標あり〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)京中 3座…大(預月次新嘗)3(うち預相嘗2)
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)左京四条坐神 1座(大)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社名称 ] 隼神社(延・大 月次新嘗)
[ふ り が な ](はやふさの かみのやしろ)(おお つきなめにいなめ)
[Old Shrine name](hayafusano kaminoyashiro)(oo tsukinameniiname)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
全国にある「牛頭天王の総本宮」(祇園信仰)の本宮争いについて
古くから 廣峯神社(hiromine shrine)と京都・祇園社(現八坂神社)との間に 祇園信仰の本社争いが続いてきました
廣峯神社(hiromine shrine)の主張
祇園の神(牛頭天王)は 広峯から京都・祇園に遷った「広峯」が本宮である
白幣山には神代より
夫婦神
素盞嗚尊(susanoo no mikoto)
奇稲田媛命(kushiinadahime no mikoto)
奇稲田媛命の親神
足摩乳命(ashinazuchi no mikoto)手摩乳命(tenazuchi no mikoto)
御子神
五十猛尊(isotakeru no mikoto)御子神八王子神
が祀られていて神の山として信仰を集めていたと伝えられています
202年 神巧皇后(jingu kogo)が 三韓征伐に出兵の際に 勝利と平定の祈願をされた という記録が 廣峯神社社伝にしるされています
天平5年(733)「吉備真備公」は 陰陽道(天文・暦・気象を司り、国の吉凶を見定める)を習得されて 遣唐使として中国から帰国します その折 広峯山系の白幣山に登臨して「牛頭天王の信託を感受」します この旨を聖武天皇に奏上して 翌年に廣峯神社の大社殿を造営しました
『日本三代実録』 貞観11年(869年)平安京の祇園観慶寺感神院(八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)を分祠
姫路の「広峰神社」の記事もご覧ください
廣峯神社(ひろみねじんじゃ)は 奈良時代 天平5年(733)遣唐使として中国から帰国した「吉備真備 公」は 国家の為に陰陽道(天文・暦・気象を司り、国の吉凶を見定める)を習得され 奈良へ帰途の折 広峯山系の白幣山に登臨「牛頭天王の信託を感受」する この旨を第45代聖武天皇に奏上し 翌年に廣峯神社の大社殿が造営されました
廣峯神社(姫路市広嶺山)〈全国にある牛頭天王の総本宮〉
京都・祇園社(現八坂神社)の主張
「播磨国 広峯社を祇園の本社とする説は 鎌倉時代以後に 広峯社が祇園執行の所領するところとなったのちに 広峯社側で主張しはじめたものであろう
北白川の東光寺は 清和天皇・元慶2年(878)の創建なので それ以前に「祇園の神」が東光寺に遷座したとは言い難い
これは 東天王町に東光寺の鎮守として「牛頭天王社(東天王社)」があるため これと混同し付会したものであろう」
広峯から京都への 遷座の伝承を持つ神社について
東天王 岡崎神社(京都)
八坂神社の主張と反するものです 東光寺創建時期と広峰からの遷座説
由緒に 東光寺の鎮守といわれる東天王社について記されていす
「東天王社は 延歴13年の創建で もともと北白川の地で祀られていたが 弘仁年間(810~824)の社殿炎上の後 貞観11年(869)播磨国 広峯から改めて(牛頭天王)を勧請して現在地に祀った その後(牛頭天王)は感神院に遷し祀られた」とあります
東天王 岡崎神社の記事をご覧ください
祇園神社(神戸)
当社の創建由緒は
清和天皇の御代(858~876)に 京洛一帯に疫病が流行したので 貞観11年(869)播磨国 広峯社から 防疫神・牛頭天王を 京都・北白川(現 岡崎神社)に一時勧請します
これを最終的には 祇園感神院(現 八坂神社)に祀ります(貞観18年・876)と伝わります
その遷座の途上 神戸の当地に一泊されたことを契機として創祀されたとしています
境内案内板には
「第56代清和天皇の御代 貞観11年(869)、京の都では、大雨が降り続いて川が氾濫して疫病がはやり多くの犠牲者が出ました。この疫病をおさめるため京都の北白川に祇園さんを建てる事になり、姫路市の城北にある広峯神社より素戔嗚尊のご分霊を頂き、京都におうつししました。
その時、みこしがこの平野の地に一泊され、霊験あらたかなのを仰ぎ、お社を建てておまつりしたのが始まりと伝られています。」
祇園神社(神戸)の記事をご覧ください
祇園神社(ぎおんじんじゃ)は 貞観11年(869)京の都で疫病が蔓延した時に これを治める御神威があるとされた「姫路の廣峯神社(ひろみねじんじゃ)」の御祭神「牛頭天王(ごずてんのう)」=「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」の御分霊を 京都の八坂神社の前身とされている京都北白川の東光寺「祇園感神院」に遷すことになり その途中で その神輿が神戸にある この地「平野」に一泊されたと云われています 以来 当地でも 御神霊を祀り続け 今日に至ります
祇園神社(神戸・平野)
京都にある「元祇園社 (モトギオンシャ)」と称する 梛神社(Nagi Shrine)〈当神社〉の社伝から解き明かす
梛神社(Nagi Shrine)〈当神社〉の社伝によれば
廣峯神社(hiromine shrine)の主張を裏付けしています
当然ですが 八坂神社ではその説を採用していません
社伝によれば貞観(じょうがん)11年(869)京の都に疫病が流行したとき、牛頭天王(ごずてんのう)(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰(はりまのくにひろみね)(現在の兵庫県姫路市)から勧請(かんじょう)して鎮疫祭(ちんえきさい)を行った。この時その神輿(みこし)を梛(なぎ)の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりであるという。
後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀(せんし)したとき 当地の住人は花を飾った風流傘(ふうりゅうかさ)を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。これが後の「祇園会(祇園祭)ぎおんえ」の起源と伝えられる。また、当社は八坂神社の古址(こし)にあたり、元祇園社と呼ばれる。
隼神社・梛神社(京都市)〈当神社〉
隼神社(はやぶさじんじゃ)・梛神社(なぎじんじゃ)は 一つの境内に二社が並立する神社です 隼神社は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 京中坐神三座の内 唯一現存する式内社で 大正7年(1918)現在地に遷座した古社です 梛神社は 貞観11年(869)の創建 京都祇園の八坂神社の旧跡にあたり「元祇園梛神社(Motogion Nagi Shrine)」と呼ばれています
隼神社・梛神社(京都市)
素盞嗚神社(新市町)の社伝によれば
さらに遡(サカノボ)れば 遣唐使であった「吉備真備(kibino maki)」が 天平6年 (734年)に 素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請したとあります
素盞嗚神社(新市町)の記事をご覧ください
素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は 『備後国風土記(bingo no kuni fudoki)』逸文の「蘇民将来(somin shorai)」の説話の舞台となる伝説の地と伝えられています 説話に登場する「疫隈國社(eno kumano kunitsu yashiro)」が当社とされ もしくは 摂社の「蘇民神社・疱瘡神社」とされています 全国の「祇園社の始りの地」とされ 京都の八坂神社の源流もこの地と云われています『延喜式神名帳』所載社であり 「備後国一之宮」ともされる由緒ある格式の高い神社です
素盞嗚神社(福山市新市町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
四条大宮駅から 西へ450m 徒歩6分程度
境内入口は 北側「四条通」と東側「坊城通」の両方にあります
・隼神社(Hayabusa Shrine)
・梛神社(Nagi Shrine)に参着
北側「四条通」のバス停の傍に 鳥居が建ち
右手に「式内 隼神社」左手に「元祇園梛神社」と社号標が左右に立ちます 一礼をして 鳥居をくぐります
すぐ 左手に手水舎があり 清めます
社殿が並列して建っています
手前〈北側 正面向かって右手〉が・隼神社(Hayabusa Shrine)
奥 〈南側 正面向かって左手〉が・梛神社(Nagi Shrine)
各々の拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内社にお詣りをして 梛神社(Nagi Shrine)のすぐ左手にある社務所にて お守りなどを受領します
都会の喧騒の中にある神社ですが とても落ち着いた境内です
鳥居を抜けて振り返り一礼をします すると四条通の交通量の多さに驚くほどです
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』延喜元年(901年)成立に記される伝承
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の隼神社(延・大 月次新嘗)(hayafusano kaminoyashiro)について
神階奉叙の記録として いずれも「後院隼神」と記されています
意訳
貞観2年(860)6月15日「甲午 授ニ後院 無位 隼神ニ 従五位下ヲ」
・・無位から従五位下貞観7年(865)6月4日
・・従五位下から従五位上貞観10年(868)11月17日
・・従五位下から従四位下貞観16年(874)8月4日
・・従四位下から従四位上
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
貞観2年(860)6月15日
貞観7年(865)6月4日
貞観10年(868)11月17日
貞観16年(874)8月4日
『日本紀略(nihonki ryaku)』〈11世紀後半~12世紀頃 編纂と伝〉に記される伝承
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の隼神社(延・大 月次新嘗)(hayafusano kaminoyashiro)について
天慶(テンケイ)3年(940)9月4日の条に 神階奉叙の記録が記されます
意訳
左京 正四位上 隼神(ハヤフサノカミ)ニ・・・・・並び 従三位
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『日本紀略』写本 延暦01年 - 長元09年[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047774&ID=M2019041909454036553&TYPE=&NO=画像利用
『都名所図会(Miyako meisho zue)』1780年(安永9年)に記される伝承
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の隼神社(延・大 月次新嘗)(hayafusano kaminoyashiro)について
江戸時代の様子が窺えます
「隼(ハヤブサ)」が「ハヤクサ」と謬り(アヤマリ) 皮膚病の瘡(クサ)に通じ 瘡毒平癒(ソウドク ヘイユ)を祈願(キガン)として信仰されたようです
意訳 抜粋
隼社(はやふさ の やしろ)
四條坊門千本通りの 東園の中にあり
古(イニシ)には 社頭(ショトウ)は 巍巍(ギギ)たり〈徳の高く尊いさま〉 今は 小祠(チイサキ ホコラ)となるも
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に云う
「左京 左京四条坐神 1座 月次新嘗 隼神社」『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』に云う
貞観(ジョウガン)2年(860)6月15日・・甲午授ニ後院 無位 隼神ニ 従五位下ヲ『日本紀略(nihonki ryaku)』に云
天慶(テンケイ)3年(940)9月4日・・奉 左京 正四位上 隼神(ハヤフサノカミ)ニ・・並び 従三位世人(世の中の人は)
隼をハヤクサと謬り(アヤマリ)通称(ツウショウ)し 又 謬り(アヤマリ)略(リャク)して 瘡神(クサノノミコト)ともいう瘡毒平癒(ソウドク ヘイユ)を祈願(キガン)の者(モノ)土にて 団子(ダンゴ)の形(カタ)をこしらへ 土器に盛って神供(シング)とす
かようなる謬(アヤマリ)見所々にあり これは しかしながら 心再拝の謹啓(キンケイ)に 頭(アタマ)を傾けぬればなとか 利生なからんや只 世俗に従うて信仰(シンコウ)すべし
・・・・・・・
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『都名所図会』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 11冊 [書誌事項]刊本 ,安永09年 ~ 刊本 ,天明07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003149&ID=M2018050216122327942&TYPE=&NO=
『神社覈録(jinja kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
祭神の詳細は判らず 一説に 陸奥国 鼻節神社〈現 鼻節(ハナフシ)神社 宮城県宮城郡七ヶ浜町〉 同神なりと記されています
意訳
隼神社
隼は 波也布佐(ハヤフサ)と訓ずべし
〇祭神 詳ならず
台記 久安10年10月17日巳未 奉レ拝ニ 隼神 奉幣七ヶ日(時料紙祠官)陸奥国 鼻節神社〈現 鼻節神社 宮城県宮城郡七ヶ浜町〉 同神なり と見ゆれど猶(ナオ)明かならず〇今 四條坊門千本東に在す
諸社根元記に云う
京中 式内神内 隼社坐 朱雀院内坐 四條坊門油小路之小社為ニ 隼神者 一説而(シカレドモ)国史に載る所 朱雀院の奥に坐ます 歟(カ)〈疑問や詠嘆などを表す〉 東三條内 角振隼者 各別事なり
前件に依って考えれば 当社 四條後院の境内に坐し事 明らかなれど その院が 頽敗(タイハイ)〈退廃〉せし後は 何処とも言い難し
神位・・・・・・・・・・
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015
・隼神社(Hayabusa Shrine)
・梛神社(Nagi Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
姫路の「広峰神社」の記事もご覧ください
廣峯神社(ひろみねじんじゃ)は 奈良時代 天平5年(733)遣唐使として中国から帰国した「吉備真備 公」は 国家の為に陰陽道(天文・暦・気象を司り、国の吉凶を見定める)を習得され 奈良へ帰途の折 広峯山系の白幣山に登臨「牛頭天王の信託を感受」する この旨を第45代聖武天皇に奏上し 翌年に廣峯神社の大社殿が造営されました
廣峯神社(姫路市広嶺山)〈全国にある牛頭天王の総本宮〉
祇園神社(神戸)の記事をご覧ください
祇園神社(ぎおんじんじゃ)は 貞観11年(869)京の都で疫病が蔓延した時に これを治める御神威があるとされた「姫路の廣峯神社(ひろみねじんじゃ)」の御祭神「牛頭天王(ごずてんのう)」=「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」の御分霊を 京都の八坂神社の前身とされている京都北白川の東光寺「祇園感神院」に遷すことになり その途中で その神輿が神戸にある この地「平野」に一泊されたと云われています 以来 当地でも 御神霊を祀り続け 今日に至ります
祇園神社(神戸・平野)
素盞嗚神社(新市町)の記事をご覧ください
素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は 『備後国風土記(bingo no kuni fudoki)』逸文の「蘇民将来(somin shorai)」の説話の舞台となる伝説の地と伝えられています 説話に登場する「疫隈國社(eno kumano kunitsu yashiro)」が当社とされ もしくは 摂社の「蘇民神社・疱瘡神社」とされています 全国の「祇園社の始りの地」とされ 京都の八坂神社の源流もこの地と云われています『延喜式神名帳』所載社であり 「備後国一之宮」ともされる由緒ある格式の高い神社です
素盞嗚神社(福山市新市町)
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『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂された 当時の官社の一覧表です このページには 「京中」に鎮座する(3座…大(預月次新嘗)3(うち預相嘗2))神社の一覧表です 現在の論社を掲載しています
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