実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

厳原八幡宮神社(対馬 厳原)

厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ) 文明8(1476)の棟札に当社は 雍州 男山八幡宮の原廟と記すとあり 八幡信仰の中心 京都 男山の「石清水八幡宮の起源」とも云われ 社伝には 神功皇后(ジングウコウゴウ)第14代 仲哀天皇の皇后が  三韓征伐からの凱還の時 対馬の清水山に行幸 神霊止まるべきであるとして 山頂に神鏡と幣帛を置き 天神地祇(テンジンチギ)を祀り 磐境(イワサカ)を設けた その後 第40代 天武天皇の勅命677により 清水山の麓に社殿を造営 5柱の神を祀り 八幡宮と称したと伝

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

八幡宮神社Hachimangu Shrine)
はちまんぐうじんじゃ

 [通称名(Common name)]

厳原八幡宮神社Izuhara Hachimangu Shrine)
いづはらはちまんぐうじんじゃ

【鎮座地 (Location) 

長崎県対馬市厳原町中村645

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》神功皇后Jingu Kogo)
   仲哀天皇Chuai Tenno)
   應神天皇Ojin Tenno)   
   姫大神Hime no Okami)
   武内宿禰Takenochi no sukune)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社(名神大)
・ 対馬一之宮Tsushima no kuni ichinomiya)

【創  (Beginning of history)】


社号 八幡宮神社
 (厳原八幡宮神社)旧県社
祭神 神功皇后 仲哀天皇 應神天皇 姫大神 武内宿禰

例祭日
旧暦813 前夜祭
旧暦814 前夜祭
旧暦815 本祭 神幸式放生会

本社は神功皇后三韓御征伐の時 対馬國に御着船ありて
上県郡 和珥の津より 三韓に渡り給ひ 
三韓を平げ給ひて 凱還の時 
清水山に行幸ありて 此の山は 神霊の止まるべき山と宣ひ 神鏡と幣帛を岩上に置き 皇后 親から天神地祇を祭りて 永く異國の寇を守り給へと祈り給ひて 神籬磐境を定め給ひし所と伝ふ。

天武天皇 白鳳4年の勅によりて同6 茲に宮殿を造らしめ給ひて 五柱の御神霊を鎮祭ありて 八幡宮神社と稱し奉る。
明治76月社格 郷社に列せられ 大正51126日県社に昇格す。

境内案内板より

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【由  (History)】

神功皇后 新羅征伐畢らせ給いて 凱還の時、下県郡与良の地、今の厳原に着御清水山を叡覧あり、此の山は 神霊の止まりぬべき山なりと宣い、御行幸ありて 巌上に御鏡と幣帛を置き 皇后 親から天神地祇を祭り給い、永く異国の寇を守り給へと祈り給い、神籬磐境を定め給い、「朕が霊も共に此の山に止まらんと宣い」し霊蹟なり。

因って 天武天皇 白鳳4年の勅により同6 此の地に宮殿を造らしめ給い、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、姫大神、武内宿禰5柱の神霊を御鎮祭ありて八幡宮と称し奉る。

八幡宮と称するは 皇后 新羅征伐に持たせたまへる御旗8流を残し給いしによる。

明治76月社格郷社に列せられ、
大正511月に県社に昇格、
同年2月に神饌幣帛供進神社に指定せらる。

明治初年に和多都美神社と称したりしを 明治238月に訂正を許可せられ八幡宮神社と号するに至れり。

例祭日 旧暦813日、旧暦814日、旧暦815日 
特殊神事 神幸式、放生会 
境内坪数 境内地5328坪 
建築物 神殿(流造檜皮葺)、幣殿、拝殿、社務所、楼門、神庫などあり。
宝物殿(昭和535月より開館、一般へ公開す)絵馬堂あり絵馬を収納す。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

境内には 2つの式内社の論社が鎮座します

平神社Hirano Shrine) 本殿脇に鎮座

《主》天穗日命Ameno Hohi no mikoto)
   仁徳天皇Nintoku tenno)
   日本武尊Yamatotakeru no mikoto)
   莵道皇子Uji no miko)

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
對馬嶋 下縣郡 平神社」の論社です 記事をご覧ください

一緒に読む
平神社(厳原八幡宮 境内社)

平神社(ひらのじんじゃ)は 厳原八幡宮の境内社です しかし 文献に現れるのは 六国史『続日本後紀(しょくにほんき)』の条文に「承和8年(841)8月・・従5位下」と神階の昇叙が記され 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)にも所載される由緒ある古社です

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宇努刀神社Unoto Shrine) 参道階段が3つあり 二ノ鳥居の正面に鎮座

《主》須佐男命Susanowo no mikoto)

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
對馬嶋 上縣郡 宇努刀神社」の論社です 記事をご覧ください

一緒に読む
宇努刀神社(厳原八幡宮 境内社)

宇努刀神社(ウノトジンジャ)は 神功皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐(サンカンセイバツ)より 凱旋の時に 対馬の上縣郡 豊村に現れて 島大国魂(シマオオクニタマ)神社を拝しのち 佐賀村に 島大国魂神社の御分霊を 皇后(コウゴウ)親(ミズカ)ら祀ったとされ 更に 延徳3年(1491)6月14日 佐賀村より下県郡 厳原八幡宮 境内へと 遷座したと伝わります 六国史『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)(901年)成立』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に神階の昇叙が記され 『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載される古社です

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天神神社《主》安徳天皇《合》菅原道真公  参道階段が3つあり 向かって左の鳥居 階段の上に鎮座
今宮 若宮神社《主》小西夫人マリア宗義智宗義純天神神社に合祀

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 号 天神神社
 神 安徳天皇 菅原道真
例祭日 旧814
本社 安徳天皇 文治の乱を避け 都を出され給ひて 筑紫に須らく潜ませ給ひ 筑紫の吉井より 当州に下り給ひて 久根村 大内山 皇家の地に遷居し給ふ
是を信御所と称す 帝終に対馬に崩ず 因つて八幡宮神社境内に神祠を造り祭りし 天神神社と称す。
貞冶元年 菅原道真公の霊を加へ祭る。

境内案内板より

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社号 今宮 若宮神社
祭神 小西夫人マリア
例祭日 814日(旧暦)


小西夫人マリアは 小西行長の長女として生まれ、天正18年(1590)15歳で宗義智夫人として金石城に入った。
マリアは 信仰心厚く 義智をも入信させた。関ヶ原の戦い後 小西家滅亡と共に慶長6年(1601)10月追われて長崎に行き、5年後 清い信仰生活のうちに死んだ。
元和5年(1619)霊魂を鎮めるためマリアとその子を祭り今宮・若宮神社と称した。後、天神神社に合祀された。

境内案内板より

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※御祭神の小西マリア(小西行長の娘)は 第19代島主で初代 対馬藩主宗義智〈夫人により洗礼を受け 関ヶ原の戦い以後 改宗〉夫人です
鳥居も参道も別に設けられていて 江戸時代の対馬の隠れキリシタンの聖堂であったかのような気がします

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

伊勢宮神社《主》天照大御神〈大手橋 鎮座〉
金刀比羅神社《主》大物主神〈大手橋 鎮座〉

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Myojin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Myojin sai)』の条 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦) 

大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに 
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺 
絲(イト)1絇を 布1端に代える

和多都美神社 一座  と記されています

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)県郡 13座(大4座・小9座)
[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 和多都美神社(貞・名神大)
[ふ り が な ]わたつみの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[Old Shrine name]Watatsumi no kamino yashiro)(Myojin dai)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

式内社對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大の論社は2つです

(對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大)

厳原八幡宮神社(対馬 厳原)

一緒に読む
厳原八幡宮神社(対馬 厳原)

厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)は 文明8年(1476)の棟札に「当社は 雍州 男山八幡宮の原廟と記す」とあり 八幡信仰の中心 京都 男山の「石清水八幡宮の起源」とも云われ 社伝には 神功皇后(ジングウコウゴウ)〈第14代 仲哀天皇の皇后〉が  三韓征伐からの凱還の時 対馬の清水山に行幸し 神霊の止まるべき山であるとして 山頂に神鏡と幣帛を置き 天神地祇(テンジンチギ)を祀り 磐境(イワサカ)を設けた その後 第40代 天武天皇の勅命(677)により 清水山の麓に社殿を造営 5柱の神を祀り 八幡宮と称したと伝

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乙和多都美神社(対馬 久和)

一緒に読む
乙和多都美神社(対馬 久和)

乙和多都美神社(おとわたつみじんじゃ)は 下縣で 唯一のワタツミの社号を伝へた神社である とされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大」の論社として 厳原八幡宮神社と並んで論社ですが どちらも「名神大 和多都美神」となる決め手と証がありません

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祭り当日に巫女が舞う命婦(みょうぶ)の舞」について

残念ながら拝見できませんでしたが

対馬市に伝承される巫女舞で 市内各地の神社例祭で奉納されている「命婦(みょうぶ)の舞」が 平成八年一一月二八日に国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されたこによる調査報告書があります
ご興味のある方は お読みください

命婦(みょうぶ)の舞 調査報告書平成二十七年度
文化庁「変容の危機にある無形の民俗文化財の記録作成の推進事業」命婦の舞 調査報告書 文化庁 平成二十七年度

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

厳原フェリーターミナルから 約1.2km 徒歩15分程度
鳥居横から境内を囲む 城壁を想わせる程の立派な石垣に漆喰の塀

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祭りの日には「八幡宮神社」の幟旗が立ち並び多くの人で賑わっていました

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厳原八幡宮神社Izuhara Hachimangu Shrine)に参着

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一礼をして鳥居をくぐります
その先 正面には二ノ鳥居が建ちます そこから参道の石段が2手に別れていて 正面が境内社「宇努刀神社Unoto Shrine)」右手が八幡宮です

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お祭りの日ではなく 普通の日に境内を見る方が判り易いので 別の写真で

聖なる清水山を背後にして 鳥居が2つち 参道の石段は3列あります 
参道の正面には 二の鳥居 
右のななめに向かう石段が 八幡宮に行く石段 右上方に神門が見えます
正面の石段が 境内社「宇努刀神社Unoto Shrine)」へと続き
その左側にもう一つ鳥居と参道があり こちらが境内社「天神神社と マリア神を合祀した 今宮 若宮神社」へと通じます

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鳥居をくぐり 右手の石段を登ると神門が建ちます 神門をくぐると 八幡宮の社殿まで 石畳みの参道が延びています

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参道の右手は社務所 神馬の像があり その手前に手水舎があり清めて 拝殿にすすみます

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祭日で御神事が催行中でしたので とてもとても 静かに
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと 静かに柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿の左脇には境内社「平神社Hirano Shrine)」が鎮座し お詣りをしますその奥に 檜皮葺の本殿が建ちます 祭りの日には神氣が漂っています

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社務所に立ち寄り 参道を戻ります 神門を抜けると 先程 上がってきた石段の上になります

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その石段を下りずに 境内社にお詣りをして 別の石段を下がります

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一の鳥居を抜けて 振り返り一礼

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夜になるとお祭りは かなりの人出で賑わっていて 屋台にも人だかりでした
祭りが終わり 人がはけてからの様子です

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『伝説散歩 八幡の島』著 大石武(平成11年)より抜粋

八幡神(ハチマンノカミ)は 神功皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐の戦勝凱旋の祝いに 対馬で掲げた八旒の旗〈8本の旗〉八幡(ヤハタ)から発祥している その御神威は 仁徳天皇の時代に伊豆山から神風を吹かせて 敵船を吹き払ったので 木坂〈海神神社(対馬 木坂〉に遷座したと 対馬の古伝を紹介しています

更に日本の八幡宮の総本社とされている「宇佐八幡」も 木坂〈海神神社(対馬 木坂)〉からの分祀であって 八幡本宮の旧鎮座地としています

八幡は対馬から

対馬人と八幡様

八幡とは、神功皇后の三韓征伐出陣に宗像神から授かった
「振波幡」「切波幡」「振風幡」「切風幡」「豊幡」「真幡」「広幡」「拷幡」

の8本の幡だった。(この古伝は宇佐にはない)、
凱旋のとき、対馬の佐賀の浜辺で凱旋のお祝いが為された。幡と鈴と浜辺に張り巡らし、矛舞と捕虜の釈放と行われ、放生会の始めとなった。
八幡は外敵へ備える神功皇后の霊として、対馬の佐賀に留められた。

 仁徳天皇の御代に、西方海上に無数の敵船が浮かんだ時、木坂の伊豆山頂から突如神風が起こり、白濤天を蹴り 敵船を一隻残らず吹き払った。後で白髭翁が現れて、神功皇后のご託宣「戦勝は鰭神の加護による」、を述べて、八幡と鈴は「木坂」へ移された。更に国府(厳原)と黒瀬と、宇佐へは欽明天皇31年分けられた。(宇佐の由緒では32年に八幡神が現れた。)・・・・・・・・・・・・・

対馬 の 上県郡(カミアガタグン)と下県郡(シモアガタグン)の 八幡宮について

対馬 には古来 上県郡(カミアガタグン)と下県郡(シモアガタグン)に八幡宮と号する神社が それぞれあって 上津八幡宮・下津八幡宮と並び称されまし
かつては 双方が 対馬一之宮称していましたが 現在は 海神神社(対馬 木坂のみが 一之宮称しています


上津八幡宮とは 現在の 海神神社Kaijin Shrine)(対馬 木坂 

一緒に読む
海神神社(対馬 木坂)

海神神社(かいじんじんじゃ)は 八幡神が神風を吹かせたと伝わる 木坂の伊豆山の麓に鎮座します 神功皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐より凱旋の折に 対馬で掲げたと伝わる 八旒の旗〈8本の旗〉「振波幡」「切波幡」「振風幡」「切風幡」「豊幡」「真幡」「広幡」「拷幡」ここから 八幡(ヤハタ)が発祥しているとして「八幡信仰の源流」とされ 江戸時代までは「八幡本宮」と号していました 対馬国一之宮であり 由緒正しき古社です

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下津八幡宮とは 現在の 厳原八幡宮神社Izuhara Hachimangu Shrine)

一緒に読む
厳原八幡宮神社(対馬 厳原)

厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)は 文明8年(1476)の棟札に「当社は 雍州 男山八幡宮の原廟と記す」とあり 八幡信仰の中心 京都 男山の「石清水八幡宮の起源」とも云われ 社伝には 神功皇后(ジングウコウゴウ)〈第14代 仲哀天皇の皇后〉が  三韓征伐からの凱還の時 対馬の清水山に行幸し 神霊の止まるべき山であるとして 山頂に神鏡と幣帛を置き 天神地祇(テンジンチギ)を祀り 磐境(イワサカ)を設けた その後 第40代 天武天皇の勅命(677)により 清水山の麓に社殿を造営 5柱の神を祀り 八幡宮と称したと伝

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『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋
〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉

神功皇后の航路が記されていて

復路に 厳原から 壱岐へと戻って行った様子が 記されています

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http://blog.kacchell-tsushima.net/?eid=221

『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承

遣唐使の祈りを捧げた2月に 対馬の神々(上縣・下縣)とともに 神階無位から昇叙が記されています

意訳

承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条

伯耆国(ホウキノクニ)川村郡 无〈無〉位 伯耆神 大山神 国坂神

及び

對馬嶋(ツシマノシマ)の上縣郡(カミツアガタ)の 无〈無〉位
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶御子神(ヤナクイノミコノカミ)

下縣郡(シモツアガタ)の无〈無〉位
高御魂住吉神(タカミムスミスミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
多久都神(タクツノカミ)
大調神(ヲオツキノカミ)

並びに 奉(たてまつ)り 従5位下 を授(サズ)く

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

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『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承

對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに 神階の昇叙が記されています

意訳

貞観12年(870)3月5日 丁巳の条

詔(ミコトノリ)を授(サズ)くに

對馬嶋(ツシマノシマ)の
正5位上 多久都神(タクツノカミ)に 従4位下


従5位上
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶神(コロクノカミ)
御子神(ミコノカミ)
嶋大國魂上(シマオオクニタマノカミ)
高御魂神(タカミタマノカミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
太祝詞上(フトノリトノカミ)
平神(タイラノカミ)

並びに 正5位下

大吉刀神(オオヨシカタナノカミ)
天諸羽神(アマノモロハノカミ)
天多久都麻神(アマノタクツマノカミ)
宇努神(ウノノカミ)
吉刀神(キトノカミ)
小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)
行相神(ユキアイノカミ)
奈蘇上金子神(ナソカミカネコノカミ)
嶋御子神(シマミコノカミ)
国本神(クニモトノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
敷嶋神(シキシマノカミ)
並びに 従5位上

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

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『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

厳原八幡宮神社を比定社と しています

意訳

和多都美神社

神階 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・正5位下

国府八幡宮 此の社なり〈現 厳原八幡宮神社〉

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876)に記される内容

式内社の和多都美神社を 現 厳原八幡宮神社と比定していたが これは 八幡宮であり ワタツミノ宮では無い
厳原八幡宮神社も「和多都美神社」から「八幡宮」への訂正の願いを度々提出している 訂正をしなければならない
本来の式内社の和多都美神社の所在は 調べ直さなければならないとしています

実際に その後 「八幡宮」への訂正の願いは承認され 社号は修正されています「明治初年に和多都美神社と称したりしを 明治238月に訂正を許可せられ 八幡宮神社と号するに至れり」と現在の社伝にも記されています

意訳

和多都美神社 名神大
明細帳 八幡宮神社に改称あり

祭神 底綿津見神
   中綿津見神
   上綿津見神
   豊玉姫
   玉依姫

今 按〈考えるに〉
長崎県式内社記に 本社 祭神は もと豊玉姫 玉依姫 2座なれど 社号によれば 必ず和多都美神なるべし 仍(ヨッ)て 加祭す とあるが如く
その主神は 綿津見神なるを 配享(ハイキョウ)の神〈配祀〉の御名のみ伝わりしものなるべし 故 今 これに従う

神位 
仁明天皇 承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・従5位下
清和天皇 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・正5位下

祭日 9月13日
社格 郷社
所在 今屋敷町 字 清水山
清水山 同社は 明治初年に和多都美社と唱えしものにて 古来 証とすべきは 皆 八幡宮にて 全く和多都見に非(アラ)ず 八幡宮なるに付き 八幡宮の旧称に復し 度々その旨願い出 20年10月 長崎県より 照会あり
これに付き この條は訂正すべし 和多都見神社の所在は追って調べるべし

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』明治45年(1912)に記される伝承

意訳

郷社 八幡宮

祭神 玉依姫(タマヨリヒメノ)命 豊玉姫(トヨタマヒメノ)命
   神功皇后(ジングウコウゴウ)應神天皇(オウジンテンノウ)
   仲哀天皇(チュウアイテンノウ)

延喜式神名帳に、対馬島 下縣郡 和多都美神社とある是なり、
神功皇后 韓國より御凱旋の途次、此地に着かせたまひ、伊豆原に御輿を止め、仰ぎて清水山を眺めたまひて、
此山は、神霊の止りゐます所なりと宣ひて、其山に登りたまひ、石上に御鏡と幣帛を置きて、自ら天神地祇を齋き、和多都美神を祀りて、異國の寇を防ぎたまはん事を祈り、神離、磐境を定めだまひ、又 吾御魂も共に此山に止らんと宣ひき、

降りて
白鳳6年、天武天皇の勅命を以て、初めて祠を建て、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の神霊をも合祀せしめたまへりと、
神名帳考証に
「和多都美(ワタヅミノ)神社 名神大 國府八幡宮 此社歟、神功皇后」と見え、
神社覈録に
「和多都美は仮字、海童神歟(考証、神功皇后といふ、今從はず)府中に在す、今 國分八幡宮と称す、
式三(臨時祭)名神祭
285座、対馬島 和多都美神社一座、当国 上縣郡 和多都美神社 名神大 当郡 和多郡美神社 小、神位、
続日本後紀、承和42月戊戌 対馬島 下縣郡 無位 和名都美神 奉授從五位下、
三代實録、貞観1235日丁巳、授 対馬島 從五位上 和多都美神 正五位下とあり、
神紙志料に
「和多都美神社、今屋敷町清水山に在り、國府八幡と云ふ、綿積豊玉彦神を祀る、伝へ云ふ、神功皇后 韓國より凱旋して この神を祀り給ふ所也」と云ひ、
次に貞観の叙位を挙げて後、「醍醐天皇延喜の制、名神大社に列る」と云へり、

地名辞書に曰く
「今國府八幡宮と云ふ、嚴原の屋敷町清水山の下に在り、
脇宮 平神は、続後紀、承和8年、無位 平神に從五位下を授けたまふとある者是也、
按するに、対州に和多都美神 数座ありて、後世 八幡神と称す、蓋古伝の遺れるに由る、八幡神は古へ 応神天皇を祭る者にあらずして、彦火々出見尊を祭る、八幡の比売神は、即 海神 豊玉姫を云ふのみ、
大同類聚方に、対馬國
忍海(オシアマ)造大國といふ人名を載す、此國にも海部の部族ありて、之を統領せる忍海造の居りしを知る、和多都美神は直に海部の氏神とも見做すべし」、
紀略に云く、「本州には木坂八幡を本宮とし、或は上(カンヅ)八幡と呼び、府中の八幡を新宮とし、黒瀬なるを城八幡と云ふ、

社説は、本宮は 継体天皇の時建立、新宮は天武天皇の時とし、いつれも8座の神を祭ると、
東鑑に、対馬守源親光、八幡宮以下の鎮守、60余社の宝殿を修理する事を載す、府中八幡の楼門棟札に、此八幡は鶴岡より勧請すとあるは誤れり」、
紀に云く、「國府八幡ば下津綿津見宮とも云ひ、先妻(サキヅマ)の前、新妻(ニヒツマ)の前に八幡神を合せ祀る、先妻新妻は、海神の女 玉依姫 豊姫をさし奉る、文明8(1476)の棟札に、当社は雍州 男山八幡宮の原廟と記す、甚ゝ詐也、本社に鐘楼あり、古鐘を懸く、口径186分、長24寸、此鐘は其図を見るに、謂ゆる竜宮形の制なり、竜頭に旗差あり、九乳鐘座はあれと、袈裟形なし、天人の模様を鋳たり)銘略す」

古文書に、大治3(1128) 権大掾阿比留真貞 神田を奉り、放生曾の用途に充つ、是れ父 己基の奉りし所を、父 忠好違乱しければ也と見ゆ、
本社の側に平神社あり、俗に軍殿と云ふ、日本武尊を祭る。
紙園社あり、是に延喜式 宇努神なるべし、
八幡の供僧は、往時 太平寺の住侶之を勤めたりと見え、又
太宰管内志に「和多都美神社、延喜式に下縣郡 和多都美神社 名神大あり、
三代實録17巻に、貞観12(870)35日(丁己)授 対馬島 和多都美神 從五位上とあり、(此郡に、「和多都美ノ神と云ふは 別にもあれど、此神 名神大とあれば、神位を授けたまへるは此方と聞ゆ)
玉勝間に、下縣郡 和多都美神社は國府にあり、神階正四位上、今は八幡宮と申す、
地図に、下縣郡
和多都美神社は宗像神社と號す、祭神 市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命、與良郷 鶏知村にあり、住吉神社の境内なりなどある、
常足 按ずるに、宗像三神を祭りて 和多都美神とすと云は 誤りなるべし、綿津見ノ神は、神功皇后 三偉御征代の時に功をなしたまへる神なれば、其比にや祭り初めたまひけん、三韓征伐の時に海神 功をなし給へる事、上巻にもいへるが如し」と云へり、合せ考ふべし、

中頃 八幡宮と称したりしが、
明治
5(1872)和多都美神社の旧に復し
76月郷社に列る、
24年更に八幡宮と改む

社殿は 本殿、拝殿を備へ、
境内
28081(官有地第一種)を有し、緑樹之を囲めり、
宝物は 古文書一通(応永年間の物)神鏡一面、古鈴五個、能面六枚、扁額二面(道風書)甲冑一領、太刀一口、木像四体等あり。

図に、鶏知村にも 神社のさまをかけり、今の住吉の神社のことなるべし」となり、尚 能く考合すべし、
後村上天皇の康永元年(1342)913日、太宰府の命により、放生曾神事を興したりといへば、古来崇敬の名社たりしを知るに足る、
明治76月郷社に列る。
社殿は本殿、拝殿を備へ、境内1002坪(官有地第一種)を有す。

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

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