実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

祇園神社(神戸・平野)

祇園神社(ぎおんじんじゃ)は 貞観11年869)京の都で疫病が蔓延した時に これを治める御神威があるとされた「姫路の廣峯神社(ひろみねじんじゃ)」の御祭神「牛頭天王(ごずてんのう)」=「素戔嗚尊(すさのをのみこと)の御分霊を 京都の八坂神社の前身とされている京都北白川の東光寺「祇園感神院」に遷すことになり その途中で その神輿が神戸にある この地「平野」に一泊されたと云われています 以来 当地でも 御神霊を祀り続け 今日に至ります

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

祇園神社(Gion Shrine)
 (ぎおんじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

平野の祇園さん(hirano no gion san)

【鎮座地 (location) 

兵庫県神戸市兵庫区上祇園町12-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》素盞嗚尊(susanowo no mikoto)
   櫛稲田媛命(kushiinadahime no mikoto)

※明治時代に発せられた「神仏分離令」の以前 神仏習合の御祭神は
素戔嗚尊
(susanowo no mikoto)は 牛頭天王(gozu tenno)と神仏習合していますので
祇園信仰の神(祇園神)=
牛頭天王(gozu tenno)と その后・婆利采女(hari saijo)が祀られていました

【御神格 (God's great power)】

・疫病退散 Get rid of the plague
・水難除け Avoid water accidents
厄除け  Prayer at an age considered a milestone in life
商売繁昌 Pray to God that the business will flourish
大願成就 Make big wishes successful and fulfill

【格  (Rules of dignity)

【創  (Beginning of history)】

第56代清和天皇の御世、京都に疫病が流行り、占いにより、姫路の廣峯神社に祀られている素盞嗚尊がこれを治めるのにお力があるという事がわかった。

貞観11年(869)、姫路から京都に向けて御分霊の神輿が行く中、この平野に住む廣峯神社と縁のある徳城坊阿闍梨の案内で一泊され、地元の人々がご神徳有るのを感謝し、素盞嗚尊を祀ったのが、祇園神社の始まりとされている。

素盞嗚尊は、牛頭天王ともいわれる。牛頭天王の信仰は、もとは中国に有る牛頭状の山に熱病に効く栴檀を産出していた事から、この山を疫病に御利益の有る神としてあがめたことに始まる。それがインドの密教と結合して中国に広まり、更にわが国に伝えられ、疫病や農作物の害虫除け、その他邪気を祓う素盞嗚尊と同じと信じられるようになった。

兵庫県神社庁HPより

【由  (history)】

創祀の年代ははっきりわからないが、神社にある天明8年の古い書類によると、第56代清和天皇の御代、貞観11年(西暦869)に姫路市城北にある広峰神社より素盞嗚尊の御分霊を京都(今の八坂神社)におうつしする時に、その平野に徳城坊と云う坊さんが居り、この坊さんが広峰神社と関係があったので、その神輿を此処に一晩お泊めした。その時、素盞嗚尊の霊験あらたかなのを仰ぎ、永く国家の鎮護を祈る為に、此処にお社を建て産土の神としておまつりしたのに創まる。疫病除・縁結び・商売繁盛・大願成就の神として崇敬者多き神社である。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から

【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿向かって右
・皇太社(kotai sha)
《主》天照大御神(amaterasu omikami)

本殿向かって左
・春日社(kasuga sha)
《主》天児屋根命(amenokoyane no mikoto)
武甕槌命(takemikazuchi no mikoto)
経津主命(futsunushi no mikoto)

本殿向かって 御垣の右外
・猿田彦社(sarutahiko sha)
 《主》猿田彦命(sarutahiko no mikoto)

・白玉稲荷社(shiratamainari sha)
《主》倉稲魂命(ukanomitama no mikoto)

・一願石

・市杵島社(ichikishima sha)
《主》市杵島姫命(ichikishimahime no mikoto)

・烏原神社(karasuhara jinja)
《主》応神天皇(ojin tenno)
市杵島姫命(ichikishimahime no mikoto)
天児屋根命(amenokoyane no mikoto)
稲荷大神(inari no okami)

烏原(からすわら)神社 御由緒

古く、石井川の上流の山田村(現在の北区)に通じる道沿いにあった烏原村に創建されましたが、この村は明治38年5月、神戸市民の上水道建設のために新しく完成した貯水ダム(烏原水源地)の底に沈みました。
この工事に伴い、明治31年末までに立ち退きを迫られた98戸、414人の住民たちは、主にその山麓の東は平野から西は氷室町にかけて移転し、烏原神社も氷室町に移りました。
その後、昭和20年3月の神戸大空襲で本殿・社務所等建物はすべて焼失し、さらに平成7年1月の阪神淡路大震災で、鳥居・燈籠など石造物もすべて倒壊しました。
震災後10年を機に関係者相談を重ね、平成18年6月7日、ご縁あるこの祇園神社の境内におうつしし、以後この神社でおまつりして行く事になりました。

境内案内板より

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

この地は「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しでも広く知られている『平家物語(heike monogatari)』の舞台のひとつです

平清盛による福原遷都(1180年)の際
平清盛は この神社の裏山に 天台宗の寺を建立しました 日宋貿易の拠点として 大輪田泊その風よけの人口島「経ヶ島」築造計画を練った場所と伝えられています
「福原京」の跡地と言われる『雪之御所』の碑(湊山小学校内)もあります
また平家の屋敷跡の遺跡『祇園遺跡』(解説板)もあり平家ゆかりの地でもあります

平野 祇園神社と平清盛

1167年(仁安2年)、平清盛が太政大臣を辞し、病のため出家して、十年以上に亘り居住されて地が祇園神社周辺の「平野」です。その間、大輪田泊(おおわだのとまり)の修築、経ケ島(きょうがしま)の築造、対宋貿易等の大事業を行いました。
1180年(治承4年)には、わずか6ヶ月の短期間でしたが、都を京都から福原へ遷しました。

都が置かれたこの広大壮麗な地は、栄華を誇った平家一門の別邸が点在し、情緒に富んだ街並みだったことが推測されます。
清盛公は、豊かな国造りを目指し、日宋貿易の拠点であった大輪田泊に、波浪を避ける目的の人工島「経ケ島」を築造する際、祇園神社の裏山にあったとされる潮音山上迦寺(ちょうおんざんじょうがじ)(現在は廃寺)で、海潮の響きを聞きながら、その計画を練ったと言い伝えられています。
市街地から港まで一望できる当社の境内から、当時の清盛公と同じ暑い想いに馳せてみては如何でしょう。 祇園神社

境内案内板より

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

「きゅうり」について

《特殊な信仰やタブー》

きゅうりは、夏の野菜の代表として、また熟れたら中が空洞(うろ・うつろ)になるので、昔はそこに邪気を封じ込めて地中に埋めたり、川に流したりしてお祓いしていましたが、今は夏祭に家族の人数分半紙に包み、えとと名前を書いて神前にお供えする信仰が残っています。

また、牛頭天王をおまつりしている事から、神職は、祭典の期間中、牛肉を食べてはいけない事になっており、またきゅうりは神社の紋(ぎおんもっこ・五つもっこ)に似ていることから、斜めに切って紋の形にならないようにして食べるようにしています。

境内案内板より

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

神戸駅からR428号経由 約2.2km 車7分程度
平野交差点を北上すると 真正面に鳥居が建ちます

祇園神社(gion shrine) に到着

境内までは88段の急な石段長い石段を上がります

境内に入ると右手に手水舎があり 正面に入母屋造・瓦葺の拝殿が建ちます

拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿と本殿は繋がっておらず 拝殿から離れて 奥には 玉垣に囲まれて一段高い敷地があり さらに御垣に囲まれて 祇園神社の本殿が建ちます

御垣の正面には 神門があり こちらにも賽銭箱があり お祈りができます

改めて
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

御垣の内には
正面に本殿

本殿向かって右
・皇太社(kotai sha)

本殿向かって左
・春日社(kasuga sha)

本殿の御垣を一巡りして本殿を仰ぎます

その他の境内社にもお詣りをします

本殿から見て 拝殿の左手に社務所があり お守りなど授与出来ます

境内からは かつて「平清盛 公」も眺めたであろう 神戸の南方向を見下ろす 素晴らしい眺望があります

階段を下り 鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼します

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

全国にある「牛頭天王の総本宮」(祇園信仰)は どこであるのか? その本宮争いについて

古くから 廣峯神社(hiromine shrine)と京都・祇園社(現八坂神社)との間に祇園信仰の本社争いが続いてきました

廣峯神社(hiromine shrine)の主張

祇園の神(牛頭天王)は 広峯から京都・祇園に遷った「広峯」が本宮である

白幣山には神代より
夫婦神
素盞嗚尊(susanoo no mikoto)
奇稲田媛命(kushiinadahime no mikoto)
奇稲田媛命の親神
足摩乳命(ashinazuchi no mikoto)手摩乳命(tenazuchi no mikoto)
御子神
五十猛尊(isotakeru no mikoto)御子神八王子神
が祀られていて神の山として信仰を集めていたと伝えられています

202年 神巧皇后(jingu kogo)が 三韓征伐に出兵の際に 勝利と平定の祈願をされた という記録が 廣峯神社社伝にしるされています

天平5年(733)「吉備真備公」は 陰陽道(天文・暦・気象を司り、国の吉凶を見定める)を習得されて 遣唐使として中国から帰国します その折 広峯山系の白幣山に登臨して「牛頭天王の信託を感受」します この旨を聖武天皇に奏上して 翌年に廣峯神社の大社殿を造営しました

『日本三代実録』 貞観11年(869年)平安京の祇園観慶寺感神院(八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)を分祠

姫路の広峰神社」の記事もご覧ください

一緒に読む
廣峯神社(姫路市広嶺山)

廣峯神社(ひろみねじんじゃ)は 奈良時代 天平5年(733)に遣唐使として中国から帰国した「吉備真備 公」は 国家の為に 陰陽道(天文・暦・気象を司り、国の吉凶を見定める)を習得されていました 奈良へ帰途の折 広峯山系の白幣山に登臨して「牛頭天王の信託を感受」します この旨を第45代聖武天皇に奏上して 翌年に廣峯神社の大社殿が造営されました

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京都・祇園社(現八坂神社)の主張

「播磨国 広峯社を祇園の本社とする説は 鎌倉時代以後に 広峯社が祇園執行の所領するところとなったのちに 広峯社側で主張しはじめたものであろう
 北白川の東光寺は 清和天皇・元慶2年(878)の創建なので それ以前に「祇園の神」が東光寺に遷座したとは言い難い
これは 東天王町に東光寺の鎮守として「牛頭天王社(東天王社)」があるため これと混同し付会したものであろう」

広峯から京都への 遷座の伝承を持つ神社について

東天王 岡崎神社(京都)

八坂神社の主張と反するものです 東光寺創建時期と広峰からの遷座説

由緒に 東光寺の鎮守といわれる東天王社について記されていす
「東天王社は 延歴13年の創建で もともと北白川の地で祀られていたが 弘仁年間(810~824)の社殿炎上の後 貞観11年(869)播磨国 広峯から改めて(牛頭天王)を勧請して現在地に祀った その後(牛頭天王)は感神院に遷し祀られた」とあります

東天王 岡崎神社の記事をご覧ください

 

〈当神社〉神戸 平野の 祇園神社(gion shrine)の伝承によれば

京都の八坂神社の前身とされているのは 京都北白川の東光寺『祇園感神院』である そこに 姫路の廣峯神社(hiromine shrine)から 「牛頭天王(gozu tenno)」=「素戔嗚尊(susanowo no mikoto)」の分霊をうつす途中 その神輿が ここに一泊したといわれ 以来 当地でも祀り続け 今日に至る

《由来

御霊信仰
平安時代の末期、第56代清和天皇の御世、京都では疫病が流行って多くの人々が死んだり、雷が落ちたりする災害がよく起こりました。これらの原因は、災害で被害にあったり政治などで失脚した人々の祟りであり、その御霊を鎮める事によってその力を頂くと言う御霊(ごりょう)信仰がはやっていました。

京都白川 東光寺
そこで占いをし、姫路の広峰神社にまつられている素盞嗚尊(すさのおのみこと)がこれらの祟りを治めるのに力があるという事がわかりました。今の京都・八坂神社の前身、京都北白川の東光寺(後に今の八坂の地に移り『祇園感神院』と称した)に素盞嗚尊をおまつりするため、貞観11年(869)のある日、姫路から京都に向けてご分霊をお載せしたお神輿の行列が出発しました。

徳城坊阿闍梨
祇園神社のありますこの平野(ひらの)の地には、当時広峰神社と縁のある姫路の書写山円教寺で修行された徳城坊阿闍梨が住んでおり、その案内で一泊されました。地元の人々はその後もご神徳篤いのを感謝し、祠を作ったのが祇園神社の始まりとされていますので、約1150年余の歴史を持つ神社です。

雪之御所
近くには、福原京の跡と言われる『雪之御所』の碑(湊山小学校内)もあり、また平家の屋敷跡の遺跡『祇園遺跡(解説板のみ)』もあり平家ゆかりの地でもあります。又、この神輿をかいた人々も疲れを癒したでしょうか、有馬温泉と同じ泉質の『天王温泉』『湊山温泉』もあります。

異空間
神社は、祇園山の中腹にあり約90段の石段を登ってお参りいただきます。上りきったそこは、都会の喧騒からはなれた異空間。石段が大変な方は、裏の坂道をご利用ください。裏山からのえもいわれぬ心地よい風は、お参りいただいた方へのただひとつの『おもてなし』です。

宮座
さて、この神社では安土桃山時代の天正年間以来8軒の家が宮座を組み、2軒ずつが1年ごとに神主役を奉仕(御当番と呼ばれた)してきました。江戸時代にはこの平野は、天領・片桐藩・畠山藩の3つの領地に別れましたが、天領・私領を問わずその庄屋連中8軒が協力して奉仕してきました。

江戸時代までの神社名は『素盞嗚社』あるいは『天王社』といわれ、通称『祇園さん』と呼ばれていましたが、明治になってからはその通称が正式な名称となりました。今も当社の横を流れる川を天王川といい、その谷を天王谷というのは、天王社といわれたころの名残りでしょう。

薬師堂
また、古絵図には、江戸時代までの神仏習合の時代、素盞嗚尊の本地仏とされる薬師如来をまつる薬師堂が境内にあったことが、描かれています。

祇園神社HPより

京都にある 「元祇園社 (モトギオンシャ)」と称する 梛神社Nagi Shrine)の伝承

梛神社Nagi Shrine)の社伝によれば

廣峯神社(hiromine shrine)の主張を裏付けしています
当然ですが 八坂神社ではその説を採用していません

社伝によれば貞観(じょうがん)11年(869)京都に疫病が流行したとき、牛頭天王(ごずてんのう)(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰(はりまのくにひろみね)(現在の兵庫県姫路市)から勧請(かんじょう)して鎮疫祭(ちんえきさい)を行ったこのその神輿(みこし)を梛(なぎ)の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりであるという。

 後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀(せんし)したとき 当地の住人は花を飾った風流傘(ふうりゅうかさ)を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。これが祇園会(祇園祭)ぎおんえの起源と伝えられるまた、当社は八坂神社の古址(こし)にあたり、元祇園社と呼ばれる。

隼神社・梛神社(京都市)の記事をご覧ください

一緒に読む
隼神社・梛神社(京都市)

隼神社(はやぶさじんじゃ)・梛神社(なぎじんじゃ)は 一つの境内に二社が並立する神社です 隼神社は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 京中坐神三座の内 唯一現存する式内社で 大正7年(1918)現在地に遷座した古社です 梛神社は 貞観11年(869)の創建 京都祇園の八坂神社の旧跡にあたり「元祇園梛神社(Motogion Nagi Shrine)」と呼ばれています

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素盞嗚神社(新市町)の社伝によれば

さらに遡(サカノボ)れば 遣唐使であった「吉備真備(kibino maki)」が 天平6年 (734年)に 素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請したとあります

素盞嗚神社(新市町)の記事をご覧ください

一緒に読む
素盞嗚神社(福山市新市町)

素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は 『備後国風土記(bingo no kuni fudoki)』逸文の「蘇民将来(somin shorai)」の説話の舞台となる伝説の地と伝えられています 説話に登場する「疫隈國社(eno kumano kunitsu yashiro)」が当社とされ もしくは 摂社の「蘇民神社・疱瘡神社」とされています 全国の「祇園社の始りの地」とされ 京都の八坂神社の源流もこの地と云われています『延喜式神名帳』所載社であり 「備後国一之宮」ともされる由緒ある格式の高い神社です

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祇園神社(gion shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

姫路の広峰神社」の記事もご覧ください

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廣峯神社(姫路市広嶺山)

廣峯神社(ひろみねじんじゃ)は 奈良時代 天平5年(733)に遣唐使として中国から帰国した「吉備真備 公」は 国家の為に 陰陽道(天文・暦・気象を司り、国の吉凶を見定める)を習得されていました 奈良へ帰途の折 広峯山系の白幣山に登臨して「牛頭天王の信託を感受」します この旨を第45代聖武天皇に奏上して 翌年に廣峯神社の大社殿が造営されました

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