古宮(ふるみや)は 第12代 景行天皇が 日本武尊を偲び 草を薙ぎ払った゛天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)゛を御霊代として草薙剣(くさなぎのつるぎ)呼び この地に社を建てた草薙神社 創建の地です 故にこの辺りを天皇原(てんのうばら)と云い その後現座地に遷座したと伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
古宮(Furumiya)〈草薙神社 創建の地〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
静岡県静岡市清水区草薙1-18-12
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》日本武尊(やまとたけるのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社 創建の地
【創 建 (Beginning of history)】
天皇原(てんのうばら)と古宮(ふるみや)
日本の古い歴史書「日本書紀」に書かれている日本武尊(やまとたけるのみこと)の「草薙の剣伝説」にかかわる、由緒ある土地で、草薙川をはさんでこの付近の平な土地を天皇原(てんのうばら)と呼んでいる。尊(みこと)の父「景行天皇(けいこうてんのう)」がこの地を訪れ乗物を留められ、日本武尊を偲び神社を建て、尊の霊を祀られ草薙神社と名付けられました。
今、此の所を「古宮(ふるみや)」と呼ばれるのは、草薙神社が現在の地に遷座されるまでは此の所にあったので、その名が残っている。
では何時頃遷座されたか、草薙神社建築の記録によると天正十八年(一五九〇)徳川家康公が造営されたという、棟札(むなふだ)が有り。また寛政九年 秋里籬嶋作(あきさとりとうさく)・東海道名所図絵(とうかいどうめいしょずえ)・巻四・草薙神社の項に「初めは少し西に神社ありしが天正十八年 官家(かんけ)(徳川家康)の台命(たいめい)によってここに移す」という記録もあり、その頃遷座されたと思われている。今は、社(やしろ)と鳥居と両側の樹木が旧草薙神社跡地として守られている。
平成十六年三月吉日
有度まちづくり推進委員会
有度ふるさと研究会現地案内板より
草薙の歴史
草薙界隈は、古くから歴史文化が発展した地域として知られています。この草薙の歴史を語るには次の三つの事蹟があります。
第一に、草薙という地名の由来となった草薙伝説があリます。
『日本書紀』には国土統一の頃、「東国征伐に赴いた日本武尊が駿河に至った折、土着の賊に欺かれ野火の難に遭遇した。尊は伊勢で賜った天叢雲の剣で草を薙ぎ払い、向火をつけて脱し、賊を滅ぼした」と記されています。その後、尊は東国平定の帰途、鈴鹿で蒙去されましたが、父景行天皇は尊を偲び、この草を薙ぎ払った地に社を建て、天叢雲の剣を草薙の剣とし、御霊代としたと言われたことから、この地は草薙という地名になりました。
草薙の地は父景行天皇の巡行に因んで天皇原とも呼ばれ、前記の社を古宮として構え、その社地は当記念碑の北西側に、位置しております。平安時代に社は現在の草薙神社に遷され、これが式内社草薙神社となり、武神、厄除開運の神として今日まで崇敬されています。第二に、この地の南方にある西の原には、全長約五〇mの前方後円・瓢箪塚古墳が存在します。六世紀初頭の築造といわれ、当地を支配した「有度君」のような豪族の墳墓と推察されます。
西の原・谷田原には、七世紀の古墳が多数分布しています。当時、この付近には集落が点在していたことがうかがえます。第三に、奈良時代、この草薙の地には都から東国常陸に至る東海道が設置されました。その道筋は現在の葵区横田から清水区横砂までほぼ一直線に敷かれ、現在のJR草薙駅の北側を通過していたことが推察されています。
江戸時代になりますと、徳川家康が宿駅傳馬制度を確立しまして、東海道の道筋の両側には松を植樹し、宿駅を設置するなどして五十三の宿場を持つ街道として再整備されました。この地域は、現在の葵区横田から一里山の一里塚を経て江尻宿に通ずる主要な幹線道路でありました。
平成二十四年十月吉日建立 静清信用金庫
編纂協力 郷土史家 杉山満現地石碑文より
【由 緒 (History)】
『東海道名所図会(tokaido meishozue)』寛政9年(1797)に記される伝承
【抜粋意訳】
草薙神社
駿府より二里許 東草薙村にあり 街道より入り
延喜式内 有度郡三社の其一座之祭神 日本武尊
例祭 正月七日 六月十五日 九月廿日
末社
本社の左の方 住吉 春日 愛宕 白髭 厳島 稲荷 荒神 天神
本社の右の方 内宮 賀茂 牛頭天王 子安 八幡 山神 浅間楠大樹 高さ一丈八尺 周 八丈余 社頭鳥居の側にあり
社傳
日本武尊 東夷征伐の事 日本紀に書くれるごとく 吾嬬國(あつまのくに)にあり・・・・・・・景行天皇 五十三年秋八月 天皇群郷に詔して曰 朕は日本武尊に征せい國郡を巡視せんとす 直に車駕を軣(とどろか)し 伊勢に御来し東(あづま)に入り 九月廿日に鑾輅に停られて 尊の神霊を鎮め玉ふ 其の所を天皇原(てんのうばら)といふ
初めは少し西に神社ありしが 天正十八年 官家(かんけ)の御命により ここに移し再興ある 御手洗川は鳥居の東にあり
毎年九月廿日は沓形祭とし 餅を沓の形にして神供とし社家より 氏子の家々に配るなれは 天皇の御沓の遺し玉ふ 遺風之都(すべ)て社頭及び村中の土地 みな黒色の土にして 灰の如し 按ずるに逆徒征伐の時 草を薙(くさをなぎ)払ひ 向ひ火をもってほろぼし玉ふ兆(しるし)ならんと思はれける
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
現在の鎮座地
・草薙神社(静岡市清水区草薙)
草薙神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が天叢雲の剣で草を薙ぎ払い野火を止めた草薙剣(くさなぎのつるぎ)〈三種の神器〉故事ゆかりの地です 社伝によれば 景行天皇が天皇53年(123)当地に日本武尊の霊を奉斎〈御神体として草薙剣を奉納〉したのが創建と云う この草薙剣は 朱鳥元年(686)天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたとも伝えています
草薙神社(静岡市清水区草薙)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される 草那芸剣(クサナギノツルギ)の伝承
東征に向かう 倭建命(ヤマトタケルノミコト)が 伊勢神宮に立ち寄り 倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から 火打石と草那芸剣(クサナギノツルギ)を給わります その後 国造に騙されて野に入ると 野火をつけられて火に囲まれてしまった その時 劔で草を薙ぎ祓い 火打石で迎え火を起こし 野焼きの火から守られたこと が記されています
この故事から 剣は 草那芸剣(クサナギノツルギ)と呼ばれています
草薙神社の古宮が この野であると伝わります
【抜粋意訳】
ここに景行天皇は 倭建命(ヤマトタケルノミコト)に詔り
東国の十二道の荒ぶる神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになられた
吉備臣(きびのおみ)等の祖先の御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)を副えてお遣わしになられ 比比羅木之八尋矛〈ヒイラギの木の八尋矛(ヤヒロホコ)〉を賜わりまし
よって命を受けられた時 伊勢神宮に參拜し神の朝廷を拝み その處においでになる叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に申された「天皇はわたくしに死ねと思つていやるのでしようか どうして悪しき人等を撃ち還つてまいりましたのに まだ間も無いのに 軍衆(イクサビトラ)も下さらない 更に東の方十二道の悪しき人等を征伐せよとお遣わしになる これを思えば やはりわたくしに死ねと思つておいでになる」と申して憂く思つて泣いておられる時に 倭比売命(ヤマトヒメノミコト)は 草那芸剣(クサナギノツルギ)をお授け また御嚢(ミフクロ)をお授けになられ「もし急の事があつたなら この嚢の口をおあけなさい」と仰せられた
かくて尾張の國に到り 尾張國造の祖 美夜受比売(ミヤズヒメ)の家へ入った すぐに結婚されようとお思いましたが また還つて來た時にしようとお思い 約束をされて東の國においでになられた 山河の荒ぶる神たち また從わない人たちを平定された
ここに 相武國(サガムノクニ)に到り その國造(クニノミヤツコ)が詐(いつわつて)言うには「この野の中に大沼があります その沼に住んでいる神は とても乱暴な神です」と言った
それで その神を見るために その野に入られた
すると國造が野に火をつけました 欺かれたと知られて 叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に給わった御嚢(ミフクロ)の口を解いてあけて見ると その中に火打(ヒウチ)がありました そこで御刀〈草那芸剣(クサナギノツルギ)〉で草を苅り撥(はらい) 火打で火をつけ 向火(ムカイビ)で 燒き火を退けられた
還つておいでになる時 國造(クニノミヤツコ)どもを皆切り滅し 火をつけて焼きはらった そこで今でも燒津(ヤイズ)と云う
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)駿河國 22座(大1座・小21座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)有度郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 草薙神社
[ふ り が な ](くさなきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kusanaki no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
有度地域に伝わるヤマトタケル伝説
地域内には20余の伝説が伝えられている。他地域に比較して極めて多く存在し、かつ、草薙地内に集中している。
発祥の時期は不詳であるが、草薙神社の信仰が広まるとともに創作されたものと推察される。有度ふるさと研究会 有度まちづくり推進委員会
境内案内板より
伝説の内容と発祥地
①御犬ヶ森 字御犬ヶ谷
尊が狩りの時、犬を放った場所という。かつて犬の栖があったと社記に記されている。(神社の南方)
〈境内の弓道場辺り〉
②手水ヶ谷 字手水ヶ谷970
尊が狩りで汗をかいた折り、ここの清水で手を洗われた所という。
③鞍下ヶ谷(鞍卸ヶ谷) 字鐙ヶ谷986
尊が野火の難に遭った時、鞍より下りた所という。
〈この辺りか?〉
④御座の松
尊が狩りの時、松を折り敷き、憩いをとった場所といわれ、松の下に小祠を建て、大山祇尊を祀る。
〈この辺りか?〉
⑤柳ヶ沢
尊が狩りをした時昼食に柳を折って箸とした所。草薙神社の祭事には必ず柳箸を使用している。
〈この辺りか?〉
⑥首塚稲荷 字東山1124
尊が征伐した賊徒の首を埋めたと伝えられる場所である。後世、野狐の栖が多くなり、一社を建て稲荷の神(宇迦之魂)を勧請した。昔はこの地から多量の人骨や古武器が出土したらしい。
〈この辺りか?〉
⑦東護の森(社) 字東護1154
尊が賊徒を鎮圧した後、戦勝を報告し、さらに東方鎮定の祈願をするために、天照皇大神を祀った所という。景行天皇40年の創建と伝えられる。
〈この辺りか?〉
⑧駒ヶ原 大字馬走字駒ヶ原
尊が駒を放ち、草を与えた所という。クマンバラという。元は草薙に属したが、何時の時代か馬走に売渡された土地といわれる。
〈この辺りか?〉
⑨天皇社 字天皇原61番地
景行天皇が日本武尊を偲び、この地に行幸した時、鳳輦を留めた場所と伝えられ、この地に天皇の神霊を遷した天皇社(明治末年草薙神社に合祀)を建て祀っていた。古地名ではこの一帯を天皇原と呼ぶ。
〈この辺りか?〉
⑩古宮 字天皇原56番地
草薙神社が最初に創建された所。
古伝では、景行天皇53年、天皇が東国に巡幸の時、日本武尊を偲び社を建てたという。現在、小社が存在する。
・古宮(静岡市清水区草薙)
〈草薙神社 創建の地〉
古宮(ふるみや)は 第12代 景行天皇が 日本武尊を偲び 草を薙ぎ払った゛天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)゛を御霊代として草薙剣(くさなぎのつるぎ)呼び この地に社を建てた草薙神社 創建の地です 故にこの辺りを天皇原(てんのうばら)と云い その後現座地に遷座したと伝わります
古宮(静岡市清水区草薙)〈草薙神社 創建の地〉
延喜式内社 草奈伎神社(くさなきの かみのやしろ)の類社について
伊勢国 度會郡 草奈伎神社(くさなきの かみのやしろ)
・草奈伎神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
草奈伎神社(くさなぎじんじゃ)は 豊受⼤神宮(外宮)の第一摂社であり その祭神は・神名祕書に草薙劔・類聚神祇本源所引の社記に標劔杖(ミシルシノツルギ)とあります 中世に頽廃しましたが 正保二年(1645)に現在地に再興されています 延喜式内社 伊勢国 度會郡 草奈伎神社(くさなきの かみのやしろ)です
草奈伎神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
駿河國 有度郡 草薙神社(くさなきの かみのやしろ)
・古宮(静岡市清水区草薙)
〈草薙神社 創建の地〉
古宮(ふるみや)は 第12代 景行天皇が 日本武尊を偲び 草を薙ぎ払った゛天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)゛を御霊代として草薙剣(くさなぎのつるぎ)呼び この地に社を建てた草薙神社 創建の地です 故にこの辺りを天皇原(てんのうばら)と云い その後現座地に遷座したと伝わります
古宮(静岡市清水区草薙)〈草薙神社 創建の地〉
・草薙神社(静岡市清水区草薙)
草薙神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が天叢雲の剣で草を薙ぎ払い野火を止めた草薙剣(くさなぎのつるぎ)〈三種の神器〉故事ゆかりの地です 社伝によれば 景行天皇が天皇53年(123)当地に日本武尊の霊を奉斎〈御神体として草薙剣を奉納〉したのが創建と云う この草薙剣は 朱鳥元年(686)天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたとも伝えています
草薙神社(静岡市清水区草薙)
駿河國 蘆原郡 久佐奈岐神社(くさなきの かみのやしろ)
・久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)
久佐奈岐神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けた旧蹟の地と云い 功績のあった副将軍の吉備武彦命が 後に廬原の国を賜った時に この地に尊を祀り社殿を造営 創祀した 又 日本武尊の東征に随伴の九万八千の諸神を祭祀奉る所として゛九萬八千社゛とも云い 古くは九万八千の幣帛を奉り 昭和までは九十八本の幣帛を奉っていたと社傳に云う
久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
草薙神社にお参りをしてから
・草薙神社(静岡市清水区草薙)
草薙神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が天叢雲の剣で草を薙ぎ払い野火を止めた草薙剣(くさなぎのつるぎ)〈三種の神器〉故事ゆかりの地です 社伝によれば 景行天皇が天皇53年(123)当地に日本武尊の霊を奉斎〈御神体として草薙剣を奉納〉したのが創建と云う この草薙剣は 朱鳥元年(686)天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたとも伝えています
草薙神社(静岡市清水区草薙)
草薙神社から 静鉄 草薙駅の側にある天皇原(てんのうばら)の゛古宮(ふるみや)゛へは 草薙神社通りを北西へ約1.3km 車で5分程度です
途中゛天皇原公園゛に立ち寄ります
公園内には古墳時代中期の前方後円墳゛ひょうたん塚古墳゛があります
ひょうたん塚古墳
遺跡名称 西ノ原一号墳(前方後円墳)
この古墳の築造年代は、おおよそ五世紀後半の古墳時代中期と推定されています。昭和四十八年 (ー九七三 )の調査で周溝の存在も確認され、全体の保存状態は極めて良好な典型的な前方後円墳です。
この地方は古代イオハラ国と云われ、四世紀中ごろの大和朝廷の勢力下に組み入れられた頃の物語として日本武尊(ヤマトタケル)が、草薙の剣を振るって在来勢力と戦ったことが古事記•日本書紀に書かれています。
その後、日本武尊に副将軍として仕えた吉備武彦 (キビノタケヒコ)の子孫の意加部彦 (オカベヒコ )がイオハラ国の王 (国造=くにのみやつこ)となり、この地を支配したと言われています。古事記•日本書紀には、その後西暦六六三年イオハラ王 (イオハラノキミ)が万余の若い兵士の水軍を率いて、朝鮮半島に出兵し、唐 (とう)•新羅 (しらぎ)の連合軍と戦い、大敗した白村江 (はくすきのえ)の戦いの記録もあります。
この古墳もその時代のもので、埋葬されている人物はその規模から清水区庵原の三池平古墳・神明古墳と並ぶ何代目かのイオハラ王の墓と推定されます。
かって、この付近の有度山のふもとは谷田古墳群・草薙古墳群など西の吉田川と東の四方沢川 (よもざわがわ)との間の約一五〇〇 mにわたって二〇〇基を超える小型円墳が存在していましたが、明治時代以降の茶畑開発と昭和・平成時代の住宅用地開発や地域の都市化によって、現在ではこの古墳と谷田宮の後公園・県立美術館園地に数基が復元・保存されているだけです。
令和四年三月
有度地区まちづくり推進委員会
有度ふるさと研究会現地案内板より
市民の憩いの場所になっています
マンションの駐車場の脇から マンションの裏手に鳥居と祠が祀られています
古宮(静岡市清水区草薙)〈草薙神社 創建の地〉に参着
祠にすすみます
お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして 戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 草薙神社について 所在は草薙村に在す〈現 草薙神社(静岡市清水区草薙)〉と記しています
三種の神器゛草薙劔(くさなぎのつるぎ)゛の由来について 素戔鳴尊が 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して その尾を割り 出てきた神劔゛天叢雲劔(あまのむらくものつるぎ)゛別名を゛草薙劔(くさなぎのつるぎ)゛であると記しています
【抜粋意訳】
草薙神社
草薙は久佐奈岐と訓べし、
○祭神 日本武尊、参考
○草薙村に在す、参考 例祭月日、
〇当国蘆原郡久佐奈岐神社あり惚国風土記五十三残欠云、駿河國有度郡草薙神社、
香具山日記曰、天照太神以に天孫瓊々杵尊、欲爲に豊葦原中津國神君、既欲に天機之時、左御手持に携八坂瓊之曲玉、右御手携に天叢雲劔、叢雲或稱に草薙劔、號に叢雲者、素戔鳴尊欲下に根國吟に出雲國之時、出雲與に伯耆國之境有に簸川、其川上常在有に大蛇横行、松栢生背、其径八尋(阿里弖)蔓に延於八丘八谷之間、其眼如に赤酸醤、頭尾各有に八岐、因之史家謂に八岐大蛇、不云に大蛇可謂に於呂地、取に於土魯於十櫓志機之義也、其大蛇之常住之傍有に奇雲氣、云々、依之戔尊誅之寸々而至尾劒刃少欠、故割に裂其尾観之、尾中有に一奇神劒、尊取之名に草薙亦別名也、草者生に無主之地、此葦原自に天孫降臨無に草叢之神、専其國輝然焉、繁草逢に利劒如払に其草葉、故天孫降臨之後有に草薙之號、
又齋部記云、取に焼鎌乃敏鎌之義、又善哉、胸與腹之間中、八咫鏡神祝曰、天孫視吾如視此三種之宝器、
又同床共に大殿(弖麻志止)、自此天嗣不絶、以に此三種之靈被奉持之、云々、依之見之則草薙者叢雲之別名也、
一書曰、日本武尊越に東夷難、至に駿河國浮島原與に阿部市、東夷欺尊、託に狩猟令遊に御廣野、日中縦火、于時十月之旬衆草枯死而宜添火、恰如塗に油姻、巳進而尊之軍危、所帯之叢雲劔自脱払に此野火、依此有に草薙名、此事大謬也、唯自神代同名而、此神社者所祭天照太神之地也、
(以上の文信用し難しといへども、博覧の為に載す)類社
伊勢國渡會郡 草名伎神社の條見合すべし神位
國内神名帳云、正五位下 草奈岐天神、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 草薙神社について 所在は草薙村草薙山にあり〈現 草薙神社(静岡市清水区草薙)〉と記しています
日本武尊が 東国へ向かう時゛御刀以て草を薙拂ひ、向火を着て 其国の賊等を斬滅し゛と記しています
【抜粋意訳】
草薙(クサナキノ)神社
今 草薙村草薙山にあり、駿河國志、吾嬬道記、駿河新風土記、駿河國圖、
蓋 日本武尊を祭る、
始 皇子 東国を制給ふとき茲に幸し、其の御刀以て草を薙拂ひ、向火を着て 其国の賊等を斬滅し給ひき、即是也、参取日本記、古事記、凡 正月七日六月十五日九月廿日祭を行ふ、駿河式社畧記
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 草薙神社について 所在は草薙村草薙山〈現 草薙神社(静岡市清水区草薙)〉と記しています
【抜粋意訳】
草薙(クサナギノ)神社
祭神 日本武尊
祭日 九月二十日社格 郷社(明細帳縣社とあり)
所在 草薙村草薙山(安倍郡有度村大字草薙 )
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
草薙神社(静岡市清水区草薙)について 『日本書紀』に記される御祭神 日本武尊について詳細に 記されています
【抜粋意訳】
〇靜岡縣 駿河國安倍郡有度村大字草薙字芳澤
縣社 草薙(クサナギノ)神社
祭神 日本武(ヤマトタケルノ)尊 譽田別(ホムタワケノ)尊
傳へ云ふ、景行天皇五十三年、天皇東國巡幸、同九月二十日、鑾輅(らんろ)を是地に駐められ、尊の神霊を鎮め給ふ、故に其の處を天皇原といふ、初め社地は、現地より稍西方に在りしが、天正十八年台命に依りて、今の地に奉遷すと、日本書紀景行天皇四十年の條に、
「冬十月、日本武尊、初至駿河國、其処賊陽從之、欺曰、是野也簾鹿甚多、氣如に朝霧、足如茂林、臨而応狩、日本武尊、信に其言、入に野中而覚獣、賊有に殺王之情、放火焼に其野、王知被欺、則以燧出火之、向焼而得免、(一云王処佩剣叢雲自補之、薙払王之傍草、因是得免、其剣曰草薙也、叢雲、此云茂羅玖毛)
と見えたるは是地にして、
又當社の起源たり、廷喜式に有度郡草薙神社と見え、小社に列せらる、實に当國二十二社の一たり、神位は諸郡神階帳に、正五位上有度郡草奈岐天神と見ゆ、古來武将の崇敬厚く、往昔は社領千五百石を有せり、
永正以来当社神職たりし森家に、當社に関する古文書数通を蔵す。曰く、天正八年九月二十七日山林之制條、江尻城主武田信君朱印、曰く同十年六月十九日本多作左衛門制條、曰く同十七年豊臣太閤家三ヶ條制禁朱印、曰く同十八年社領朱印(明細帳云高十八石)曰く同戌四月二十四日中村家長横田内膳正制條、
次いで慶長七年十二月八日徳川氏、社領として郷内朱印五十石を寄す、
諸社御朱印写に云く、「草薙大明神、社領、駿河國有度郡草薙郷内五十石事、並小林竹木諸役等免除、任に慶長七年十二月八日、元和三年二月四日、寛永十三年十一月九日、朱判之旨、永不可有相違者也、
寛文五年七月十一日」
と、是より先、天正十八年、家康当社を再興す、棟札に云く、
「奉に造立草薙大明神一宇、駿州有度郡入江庄草薙村(天正十八年五月吉日)」
大檀那徳川家康、神主森彦三郎たり、然るに同社殿 寶永六年の地震に大破し、七年勤化御免ありて再興す、後ち天保二年、嘉永二年又勧化御免ありしと、明治元年御東幸の砌、同年十月五日、勅便 植松少將参向、官幣を奉らる、六年郷社に列せられ、十二年七月二十四日縣社に昇格し、四十一年八月八幡神社を合併す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神樂殿、神饌所、神庫、番所等を備へ、境内二千五百七十坪(官有地第一種)あり、
社頭に神木と称する樟樹あり、駿府内外社寺記抄に「周廻り十三間、高一丈八尺余、此上枝葉有り云々」伴氏考証に「其脇にうつろあり、内方一丈四方計あり、内へ入りて見るに、屋室の如し、其根の方は石に化したる處あり、又朽ちたる處あり、其上より尋常の大木云ふべきほどの楠を生じ、枝葉しげれり、実に稀有の古木たり」と見えたり、林羅山
欲 爲黎民解 倒懸、東征到處幾山川、腰間一自 蛇龍動、雲氣吸消草草烟境内神社
浅間神社 山神社 八幡神社 子安神社
天王社 加茂神社 住吉神社 春日神社
愛宕神社 白髭神社 嚴島神社 稻荷神社
荒神社 天神社 楠社例 祭 日 九月二十日
會計法適用 明治四十一年九月二十五日
指定年月日 告示第四百三十四號
【原文参照】
古宮(静岡市清水区草薙)〈草薙神社 創建の地〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
駿河国 式内社 22座(大1座・小21座)について に戻る
駿河国(するかのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 駿河国には 22座(大1座・小21座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
駿河國 式内社 22座(大1座・小21座)について