古郡神社(ふるこおりじんじゃ)は 創建年代は不詳 正長元年(1428)の大風により倒壊し 久米村御崎神社に合祀奉遷された 嘉永四年(1851)足守藩木下利成の援助により 西山の旧社地に社殿を造営し再興された 明治初期造営の社殿は倒壊していて 現在は 小祠と古郡神社々跡の石碑が残ります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
古郡神社(Furukouri shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
岡山県総社市総社2405〈岡山県総社市総社字西山〉
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》吉備武彦命(きびたけひこのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
古郡神社(フルコオリジンジャ)
由緒
延喜式内社であるが、創建年月日不詳。永仁六年の裏書のある服部郷の古図に、宮山が見え、宮山の東には古都の里、宮妹川の名がある。
備中風土記に「名宮瀬川、川西者吉備建日子命之宮此三世王故名宮瀬」とある。正長元年の大風に倒壊し、久米村御崎神社に奉遷し、嘉永四年七月西山の旧社地に社殿を造営し、奉遷したと伝えている。岡山県神社庁HPよりhttps://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/18500/
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・古郡神社々跡 の石碑
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)備中国 18座(大1座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀夜郡 4座(大1座・小3座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 古郡神社
[ふ り が な ](ふるこほりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Furukohori no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳927 AD.』所載の備中国 賀夜郡 古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の論社は 三ヶ所あります
・古郡神社(総社市総社)
古郡神社(ふるこおりじんじゃ)は 創建年代は不詳 正長元年(1428)の大風により倒壊し 久米村御崎神社に合祀奉遷された 嘉永四年(1851)足守藩木下利成の援助により 西山の旧社地に社殿を造営し再興された 明治初期造営の社殿は倒壊していて 現在は 小祠と古郡神社々跡の石碑が残ります
古郡神社(総社市総社)& 古郡神社々跡
・〈槇谷鎮座 村社・古郡神社を合祀〉池田神社(総社市槙谷市井谷)
池田神社(いけだじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の備中国(びっちゅうのくに)賀夜郡(かやのこおり)古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の論社であった 元 槇谷鎮座 村社 古郡神社を 大正二年(1913)十二月十三日に合祀していて 現在 式内社の論社となっています
池田神社(総社市槙谷市井谷)〈元槇谷鎮座 古郡神社を合祀〉
・吉川八幡宮(吉備中央町吉川)の境内社
吉川八幡宮(よしかわはちまんぐう)は 永長元年(1096)京都 石清水八幡宮の別宮として創建と伝わり その後 慶長年中(1596~1615年)に断絶したが 後光明天皇 寛永21年(1664)に寄付の記録があります 『備中誌』に 吉川村の村内に布郡(ふこほり)と呼ばれる地名があり ここが式内社 古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の所在ではないかと記しています
吉川八幡宮(吉備中央町吉川)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR吉備線 服部駅から西へ約1Km 車約3分程度
一度以前 2015年だったが 参拝しようと訪れた時 山の下に鳥居を見つけたが 鳥居の扁額には 正一位 稲荷大明神 とされていて かなり荒れた石段を登る様子 車を停める場所もなく 場所違いと思い 立ち寄らず
ホテルに戻ってから 調べなおすと やはりあの場所だった
後悔したが 次の日からの予定があり 次回に参拝しようと断念
2022年に再訪問
前回は 山の南側からだったが 山の東側に墓地があり 山へ上がって行けそうなので そちらからチャレンジ
墓参り用の道を上がって行くと 途中から畑道になりました
すると何やら 石碑が建っています
畑をよけながら 石碑に近づいてみます
石碑には「古郡神社々跡」と刻まれています 両手を一礼をします
石碑の裏面には「昭和十四年七月 服部村 難波萬右衛門建立」とあり
昭和十四年(1939)に建てた石碑なので この社跡とは 明治初期造営の社殿なのでしょうか
石碑は北東を向いていて 中国横断自動車道が見えています
石碑の向かって左手奥に 小屋があり その奥に土を盛られたような場所があり 祠の裏手になっていました
正面に回ると 延喜式内社 古郡神社 の社号標があります
古郡神社(総社市総社)に参着
祠は 南を向いていて建っています
そちらに本来の参道が伸びていました
本来の参道から 祠に向かい 拝所にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
祠の向かって左奥には 先程の 古郡神社々跡の石碑 が建ちます
祠は南向き 石碑は北東向き 祀られていた方向が違ったという事でしょうか
社殿と石碑に一礼をして 来た道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
『式社考』を参照として 式内社 古郡神社の所在は 惣社より二里の槇谷村 と記しています
【抜粋意訳】
古郡(フルコホリ)神社
考 今在に 槇谷村に 惣社より二里
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 古郡神社の所在は 槇谷村と記しています
【抜粋意訳】
古郡神社
古郡は 布留古保里と訓べし
〇祭神詳ならず
〇日羽郷槇谷村に在す 式社考
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 古郡神社の論社は 三ヶ所ある
1.八田部村 四山宮山〈現 古郡神社(総社市総社)〉
2.槇谷村〈現 池田神社(総社市槙谷市井谷)〉
3.上房郡吉川村〈現 吉川八幡宮(吉備中央町吉川)〉と述べています
この中で 1.八田部村〈現 古郡神社(総社市総社)〉であろうと 記しています
【抜粋意訳】
古郡神社
祭神 吉備武彦命
祭日 十一月一日
社格 明細帳には田部村なし 総社村字四山古那神社 村社とあり取調の事所在 八田部村 四山宮山(吉備郡総社町大字惣社)
今按〈今考えるに〉
古郡神社と云もの三所にあり 一は槇谷村 一は上房郡吉川村と本社と是なり
槇谷村は一も証とすへきものなく 八幡の末社 鉾振社と云を布古布里社と訛りしものなれば古郡神社にあらず 唯 神名帳頭注に備中國風土記云 賀陽郡 伊勢御神社 東有川 宮瀬川々西者 吉備建日子命 宮造 此三世王故 名宮瀬云々 永仁六年模寫の服部郷 古図に古郡里宮 妋里あり その図の欄外に山崎宮山と云ありて 八田部郷と服部郷と相接するを以て考るに この図に宮山と云る者 西山宮山是なり 宮山の以東は即 古郡里にして 山崎も宮山の南方の地名なるが 今に宮山山崎と云もの証とすへし故 今之に従う
【原文参照】
『備中誌(びつちゅうし)〈明治35~37年(1902~1904)〉』に記される伝承
槇谷村の条に 現在 池田神社(総社市槙谷市井谷)に合祀されている 古郡神社について 式内社の可能性を記しています
【抜粋意訳】
備中誌 賀陽郡 卷之七 槇谷村の条
古郡神社
延喜式神名帳に出 備中國十八社の一なり 是は非なりと 秀雄云り 文徳天皇 嘉祥四年正月庚子 正六位上 清和天皇 貞観元年正月二十六日従五位下
祭禮 十一月十七日
古代 古郡神社は上房郡今跡なし
山林一町二反余 本社一間四方 神子一人
【原文参照】
『備中誌(びつちゅうし)〈明治35~37年(1902~1904)〉』に記される伝承
式内社 古郡神社の所在について 上房郡 吉川村の条に 村内の地名の中に 布郡(ふこほり)という所があり そこが式内社ではないだろうか と記しています
【抜粋意訳】
備中誌 上房郡 卷之壹 吉川村八幡宮の条
吉川村八幡宮
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当村枝村八名あり 其の内に布郡と云う處有り 疑らくは 延喜式に載る處 古郡社ならんか
・・・・
【原文参照】
古郡神社(総社市総社)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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備中国(びっちゅうのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される官社です 備中国には 18座(大1座・小17座)の神々か坐します 現在の論社を掲載しています
備中国 式内社 18座(大1座・小17座)について