実践和學 Cultural Japan heritage

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深江神社(壱岐市芦辺町深江栄触)

深江神社(ふかえじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 壱岐島24座の一座「與(与)神社(yo no kamino yashiro)」の論社とされています 社前には 弥生時代(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃)からの「深江田原(fukae tabaru)」と呼ばれる田園が広がっています かつて ここは大きな湿地帯(沼湖)であって ここから壱岐の王宮へ渡る処にある宮という意味から 「渡の宮(とのみや)」と呼ばれていたと伝わります 

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

  深江神社(fukae shrine)
 (ふかえじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

  旧号 渡の宮(とのみや)

【鎮座地 (location) 】

 長崎県壱岐市芦辺町深江栄触682

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》伊弉冊尊(izanami no mikoto)
   大国魂命(okunitama no kami)

【御神格 (God's great power)】

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社

【創 建 (Beginning of history)】

【由 緒 (history)】

旧 田河村 村社 深江村の産土神
大永4年(1524)造営の棟札あり
昔「五所姫大明神 渡の宮」と言われたそうです。
神社の前には、弥生時代からの深江田原が広がっています

『神々の島、壱岐の神社を訪ねて(著 田村睦)』より抜粋

【境内社 (Other deities within the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社名 ] 與(与)神社
[ふ り が な  ](よの かみのやしろ)
[How to read ](yo no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

神社の前に広がる 弥生時代からの「深江田原」について

現在 壱岐で一番大きな平野が「深江田原」です

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深江の旧地名は「田河村 深江」です おそらく「深い江」陸地の奥にある河の港の意味であろうと推測できます

縄文時代の海進のあったころであれば 神社の目の前は入り江があった筈です
弥生時代には 湿地帯となって 稲作の行われた「深江田原」になっていったのだと思います
現在の地形図を見ても その様子が垣間見れます

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深江神社は かつて「深江大明神」とも「五所姫大明神 渡の宮(とのみや)」とも呼ばれていたと云われます
この目の前の大きな湿地帯(沼湖)を渡る処にある宮「渡の宮(とのみや)」という意味だと云います

現在の位置関係では 幡鉾川の北に当社が位置して 東南の対岸には 一支国博物館が建っていますが 一支国(壱岐国)の王都があったとされている「原の辻遺跡」があります
壱岐国の中心であった穀倉地帯を守る「壱岐国の御魂の神」として 御祭神の大国魂命(okunitama no kami)が祀られているのでしょう

今でも 深江神社の目の前には 縄文や弥生の風が吹いているようです

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

芦辺港より 県道23号経由 約7km 車10程度

深江神社(fukae shrine)に到着

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古い石灯篭と鳥居が建ちます

鳥居は 江戸期に造られた石造りの「肥前鳥居」です 
扁額には「深江神社」とあります

左手に社務所 正面に社殿が建ちます

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拝殿にすすみます 木製の引き戸を開くと 畳敷きの拝殿となっています
正面の額には「田河村 深江神社 御祭神 伊弉冊尊 大国魂命」とあります

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿奥には 立派な本殿が鎮座します

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振り返ると 鳥居の先には 弥生時代からの「深江田原」が広がっています
境内を後にします 振り返り一礼 

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『壱岐国神社誌(ikinokunijinjashi)』に記される伝承

古くは「深江大明神」と呼んでいて 以前は式内社としていたとあります

抜粋意訳

「 村社 深江神社 (旧號 深江大明神)

〔由緒沿革〕
一 神名記にいわく
  深江大明神小神あらため 以前は式内としていた 大國魂命とあります
一 神社帳にいわく 山方に深江大明神の本社あり 
  宝殿拝殿 定祭9月27日 神主 後藤安太夫
一 大永4年(1524)造管ノ棟札アリテ印山道可判ト記ス。
一、天正11年(1583)9月 宝殿造営棟札にいわく

  上棟の奉斎 深江大明神寶殿 再興の祈願は 国主 松浦肥前守 源隆信
  沙彌道嘉判 守護 日商甲斐守 源喜判 ・・・・・」

【原文参照】壱岐国神社誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション 著者: 長崎県神職会壱岐支会 編; 出版者: 長崎県神職会壱岐支会; 出版年月日: 昭和16
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1035221

社前に弥生時代からの「深江田原」が広がっています かつては この大きな湿地帯(沼湖)を渡る処にある宮という意味から「渡の宮(とのみや)」と呼ばれていたと伝わり 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に所載の「與(与)神社」とされています

深江神社(fukae shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に所載の「與(与)神社」のもう一つの論社
「興神社」の記事もご覧ください

一緒に読む
興神社(壱岐市芦辺町)〈壱岐国一之宮〉(元印鑰宮)

興神社(ko shrine)は 壱岐国が王制の時代であった頃の 一支国(壱岐国)の王都の跡「原の辻遺跡」のすぐ傍に鎮座します 官庫の鑰(かぎ)や国府政所の印かんを納める所として「印鑰大明神」の社号で呼ばれ 格式高い由緒を伝えます 里人の通称名は「一の宮」です 現在では 本来の式内名神大社「天手長男神社」で「壱岐国一之宮」は当社「興神社」とする説が有力です

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壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る 

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壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について

壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です

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