実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

藤島神社(岡谷市)

藤島神社(ふじしまじんじゃ)は 伝説によれば 諏訪入りした外来勢力諏訪明神建御名方神(たけみなかたのみこと)先住の神「洩矢神(もりやのかみが争った 諏訪明神(藤島明神)の伝承の地とされます 「藤島社」は 中世~近世以降 天竜川のほとり 三沢村の荒神塚〈石室を備えた円墳「荒神塚古墳(Kojinzuka kofun)」の跡に鎮座している〉とされています

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

藤島神社Fujishima Shrine) 
ふじしまじんじゃ

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長野県岡谷市川岸上1-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》藤島明神(建御名方神(takeminakata no kami)
《配》三宝荒神(夜辺荒神 忿怒荒神 三島荒神)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

諏訪明神(藤島明神)の諏訪入り伝承の地

【創  (Beginning of history)】

不詳

【由  (history)】

郷土の文化財25 荒神塚古墳

文書にみられる藤島神社(荒神塚古墳)

 荒神古墳には古くから藤島神社が祀られ、諏訪明神の入諏伝説か語られてきた。
中世から近世に至る間に書かれた文書には、入諏に関する記述がみられる。
荒神古墳と藤島神社が、一概に無関係とは限らず、古代諏訪を解明するに貴重な史料である。

2005年(平成17年)3月
長野県諏訪建設事務所
長野県岡谷市教育委員会より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

明冶14年の調査

 明治初年の絵図によると.天竜川と宮沢川という天竜川に流れ込む小支流の合流点に広がる田の中に.大きな木のある小丸山が描かれている。これが荒神塚古墳であり.円墳である事を示している。

2005年(平成17年)3月
長野県諏訪建設事務所
長野県岡谷市教育委員会より

絵図に記されている文には
「この社(ヤシロ)は 南向きにして 天竜川に臨む 四方は田畑なり すべて この所を総称して垣外と云う この塚の背に石穴あり この窟の中より 種々の器物を出土 穴の長さ4間 幅6尺」

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

洩矢神社Moriya shrine)の藤の木と 絡み合う 藤島神社(Fujishima Shrine)の藤の木 について

洩矢神社Moriya shrine)長野県岡谷市川岸東1丁目12〉の境内に掲げられている由緒略記には 藤島神社Fujishima Shrine)の藤の木と洩矢神社Moriya shrine)の藤の木が絡み合う様子が書かれています

一、藩主の崇敬
洩矢神社の藤と三澤区の藤島神社の藤とが天竜川の上でからみ合う程 繁茂していた
寛文年中(1664~1773)諏訪藩主が蛍(ほたる)見物のとき邪魔になると云うことで 切り払うことを命じたが 神罰を恐れて誰一人伐る者がない

その時 新屋敷の嘉右衛門という力自慢の男が「自分に山役(やまやく)(青蔵米(みつきくらまい)三升の役)二人の役料をくださるなら伐ります」と申し出たので 伐らせた処 間もなく気がおかしくなってしまった


藩主にも祟があったので 新たに祠を場内で造って奉納することにした処 大きすぎて大手門を出ることができない やむなく少し縮めて奉納されたのが現在の洩矢神社の本殿である。その時 現在地に遷座した

洩矢神社(岡谷市)の記事をご覧ください

論社
洩矢神社(岡谷市)

洩矢神社(もりやじんじゃ)は 洩矢大神とも称します 神代に諏訪に侵入した外来の勢力 諏訪明神=「建御名方神(たけみなかたのかみ)」に 抵抗した 先住の神「洩矢神(もりやのかみ)」が屈服するという「諏訪の国譲り物語」の舞台とされます 御祭神の「洩矢神(Moriya no kami)」は 諏訪大社上社の神長官「守矢氏(もりやうじ)」の始祖とされています

続きを見る

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

天竜川が 諏訪湖から流れ出る ちょうど諏訪盆地の袋の口にあたる岡谷の天龍川沿い 遠州灘から遡上すれば 諏訪の入り口にあたります
県道のすぐ脇に鎮座します

岡谷市指定史跡の名板があります

「川岸天龍河畔 諏訪明神 入諏伝説の地」

藤島神社Fujishima Shrine)に参着

一礼して 鳥居をくぐります ちいさな境内は かつての古墳の様相は全くなく 整地されて道路のきわにあります

社殿は 道路に背を向けて東南方向 その方角は天竜川の対岸を向いています

社殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

諏訪大明神画詞(suwadaimyojin ekotoba)諏訪祭四の条に記される伝承

諏訪大明神画詞(suwadaimyojin ekotoba)は 1356年(正平11年 / 延文1年)に成立した「諏訪大社の縁起」全12巻です
縁起では 神代に諏訪に侵入した外来の勢力建御名方神(takeminakata no kami)に抵抗した 先住洩矢神Moriya no kami) 屈服する諏訪国譲り」とも云える話があります

諏訪大明神絵詞(suwadaimyojin ekotoba)諏訪祭四の条

この藤島明神と申すは
「尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争い、明神は藤の枝を取りて是を伏し給う
 ついに邪輪を降ろして正法を興す 明神誓いを発して藤枝をなげ給ひしかば 即ち根をさして枝葉をさかへ 花蘂あざやかにして戦場のしるしを万代に残す 藤島の明神と号するこのゆえなり

諏訪大明神絵詞(suwadaimyojin ekotoba)諏訪祭四の条
国立国会図書館デジタルコレクション
続群書類従. 第3輯ノ下 神祇部 著者塙保己一 編出版者 続群書類従完成会

洩矢神社Moriya shrine)長野県岡谷市川岸東1丁目12〉の境内に掲げられている由緒略記

藤島神社Fujishima Shrine)洩矢神社Moriya shrine)の由緒が記されています

一、縁起
諏訪大明神画詞(みょうじんえことば) 延文五年(1356)によれば
諏訪には先住の国津神(くにつかみ)の洩矢神がおられた
そこへ建御名方命(たてみなかたのみこと)(諏訪明神)が侵入されようとした
川岸の地で洩矢神は「鉄の輪」を建御名方命は「藤の枝」を持って争ったが 洩矢神は命の陵威に服した
その時 建御名方命は持っておられた藤の枝を投げた処 その枝は根づいて繁茂して藤洲羽の森となったのが 現在の荒神様、藤島神社(三澤区)である


洩矢神は建御名方命に服属し その最高の職 神長官(みわのちょうかん)となり 建御名方命を助けて 諏訪の地開発につくされた
氏子は 洩矢神の御神徳をたたえるために 天竜川をはさみ藤洲羽の森の対岸の地に社を建て 洩矢神を祀った これが洩矢神社の始めである

藤島神社Fujishima Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

洩矢神社(岡谷市)の記事をご覧ください

論社
洩矢神社(岡谷市)

洩矢神社(もりやじんじゃ)は 洩矢大神とも称します 神代に諏訪に侵入した外来の勢力 諏訪明神=「建御名方神(たけみなかたのかみ)」に 抵抗した 先住の神「洩矢神(もりやのかみ)」が屈服するという「諏訪の国譲り物語」の舞台とされます 御祭神の「洩矢神(Moriya no kami)」は 諏訪大社上社の神長官「守矢氏(もりやうじ)」の始祖とされています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています