実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

富士山東口本宮・須走口登山道 冨士浅間神社〈須走浅間神社〉

富士山東口本宮 冨士浅間神社ふじさんひがしぐちほんぐう ふじせんげんじんじゃ 富士須走口東口登山道の起点とな須走浅間神社〉で 富士山 世界文化遺産 構成資産の一つです 大同2(807)年創建で 富士山噴火延暦21年(802〉時の鎮火祭の斎場であった跡地(現在の社地)に祀られた東口(須走口)本宮として 古来より崇敬を集めます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

冨士浅間神社(Fujiasama shrine

富士山東口本宮・須走口登山道
冨士浅間神社Fujisanhigashiguchihongu Fujisengen shrine

 [通称名(Common name)]

東口本宮冨士浅間神社(ひがしぐちほんぐう ふじせんげんじんじゃ)
須走浅間神社(すばしり せんげんじんじゃ)

【鎮座地 (Location) 

静岡県駿東郡小山町須走126

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

《配》大己貴命(おほなむちのみこと)
   彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

安産子育・縁結び・火難除

【格  (Rules of dignity)

・富士山 世界文化遺産 構成資産

【創  (Beginning of history)】

世界文化遺産「富士山」構成資産富士山東口本宮・須走口登山道

ふじせんげんじんじゃ
冨士浅間神社(静岡県駿東郡小山町須走鎮坐)

御祭神 木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
(安産子育・縁結び・火難除)

由 緒
大同二(八〇七)年、富士山の延暦二十一年(八〇二年)の噴火に於ける鎮火祭跡地(現在の社地)に創建。旧県社。
富士山登山道・東口=須走口の本宮であり、起点となる。
須走口五合目の古御岳神社、同六合目の胎内神社、同九合目の迎久須志之神社は、当社の境外末社である。

古来より富士信仰による信仰・崇敬を集めている。
平成十九年には御鎮座千二百年記念大祭が斎行された。

主祭事
五月  五日 例大祭
七月  一日 富士山開山式
八月三十一日 富士山閉山式

神社配布紙より

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【由  (History)】

冨士浅間神社

鎮座地 静岡県駿東郡小山町須走126

御祭神
 神 木花開耶姫命
 神 大己貴命 彦火々出見命

創 建
第五十一代 平城天皇の大同二 (西厂807)

御由緒
第五十代 桓武天皇時代の延暦二十一 癸未 年(802)正月、富士山東側が噴火し、爆発によって吹き上げられた火山岩や砂礫が四周に飛び散り、しばらく噴火が続いた。特に、東麓の御殿場地方の被害が大きく、時の国司、郡司が諸人の憂情を憐み、鎮火の祈願をなさんが為、東面須走の地に来り斎場を設け祭事を執行せらる。即ち現在の社地、字日向と呼稱する所にして、同年四月初申の日に噴火が治まったので、この神助を報賽せんが為、当社を創建せらる。

富士信仰
霊峰富士山は、古来浅間大神の静まり坐神体山として、全国の登拝者の最も尊崇するところである。当社は、天正年間開通と伝えられる須走口登山道の本営として、特に夏季は、登拝者で社頭を賑わす。

現地案内より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

末社・社護神社
末社・恵比須大国社

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境内末社(けいだいまっしゃ)

この神社には、境内社として次の神社(神様)が祀られている。

・日枝神社《主》大山昨命 金山彦命 素戔嗚命 奥津彦命 奥津姫命
・山神社《主》大山祗命 火産霊命
・琴平神社《主》大物主命 水分命 水速賣命 市杵島姫命
・霧島神社《主》瓊瓊杵
・高尾神社《主》見命
・社護神社《主》大己貴命 月讀命

〈由緒〉
古い時代より当社境内地には、日枝神社を始め多くの神社がそれぞれ祀られてきた。そして何度か神社の合併がなされ、昭和33年、現在のように6社がここに合併された。
その中で、社護神社は最も古く本社の鬼門除とされていた。また、氏子崇敬者の信仰扁く「おしゃごつぁん」と称えられ、親しまれていた。毎年仲秋名月の夜、神官によって祭典が執り行われている。

現地案内板より

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・祖霊社

冨士浅間神社の根上りモミ

小山町指定文化財
天然記念物
冨士浅間神社の根上りモミ

根回り 4.61米
目通り 3.07米
 高 27.00米

一、所在地 小山町須走127番地
一、所有者 小山町須走126番地 冨士浅間神社
一、指定年月日 平成三年五月一日
 このモミは推定樹齢約300年で、この根上り群は約150年生のモミ根元にブナ、イヌシデの種子が生え、現在を遡る約100年間の降雨による火山灰土の流亡により根上りになったものと考えられ本邦希に見る奇観で学術上価値が高い。
平成三年九月一日 小山町教育委員会
現地案内板より

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・湧水・宝永の清流

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信しげの滝

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・長壽亀石

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・鎌倉往還〈境内のすく脇を通る〉

鎌倉往還(かまくらおうかん)

鎌倉往還は、かつては鎌倉道などと呼ばれ、幕府所在地の鎌倉から放射状に複数のルートがありました。
 由来については、現在のところ、源頼朝が鎌倉に幕府を開くに至る源平の合戦にその起源をおくといわれています。
 鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人や坂東の武者達が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還に利用した道でもあります。

 当時から街道が担ってきた役割は軍用道路としての実質的な目的の他、政冶や経済流通としての交易にも用いられ、地方に残る様々な遺物から文化や宗教等も急速に伝えられたことが明らかにされています。
かつての鎌倉往還は、廃道となっていたり、拡幅されたり付け替えられたものも見受けられ、また枝道も多くあることから正確なルートについては諸説あります。しかし、未舗装のまま現在に至り。当地のようにかつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残存しています。
 当地の鎌倉往還は、まっすぐに籠坂(かごさか)峠・御坂(みさか)峠を越え、甲斐源氏の国の中心、石和(いさわ)へ向かうルートをとっています。
 このように小山町須走は、古くから富士北麓地域と駿東部を結ぶ交通の要衝として利用されていたことがわかります。

現地案内板より

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

須走口五合目古御岳神社《主》大山祗命 火須勢理命 高於賀美命

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 [  (Google Map)]

古御岳神社

御祭神 大山祗命 火須勢理命 高於賀美命
例祭日 八月十七日

創建年代不明、寛政十一年(一七九九年)再建と伝わる。

須走浅間神社から山頂までの富士山須走口(東口)登山道の中ほどに位置し、登山下山道の道中安全の崇敬を受けるほか、太郎坊と呼ばれる天狗も奉祀する。

昭和五十四(一九七九)年に現在の社殿に建替えるとともに、山道の変遷等を理由に、この地より下に鎮座していた須走口の中宮である御室浅間神社(御祭神・木花咲耶姫命、瓊瓊杵命)、雲霧神社(御祭神・級津彦命、級津媛命)が合祀され、現在に至る。

古くから現在に至るまで、ここで祭祀される三社、本六合目胎内神社、九合―の迎久須志之神社は富士山須走口登山道起点である東口本宮冨士浅間神社(須走浅間神社)の境外末社として、同神社の神職また地元の方々により祭祀が執り行われている。
古御岳神社の御札・御朱印等は東口本宮冨士浅間神社で授与しております。
(静岡県駿東郡小山町須走126)
現地立札より

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・野中神社〈旧称・大日堂

野中神社(大日堂)例祭 小山町観光協会
http://kanko-oyama.jp/info/4803/

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

富士山の火山活動と 祭祀について

大同2(807)年 富士山の延暦21年(802年)の噴火に於ける鎮火祭跡地(現在の社地)に創建され 富士山東口(須走口)本宮として 古来より崇敬を集めています

社説裏付けるような学説がありますので ご参考まで

富士山の歴史噴火総覧小山真人
延暦十九~二十一年(800~802)噴火*

『日本紀略にほんきりゃく』『富士山記』などの史料価値の広く認められた史料,および「宮下文書」に,延暦十九年(800)から二十一年(802)にかけての一連の富士山噴火(以下,延暦噴火)記事がある
正史またはそれに準じる史料価値の高い史料中の延暦噴火の記述として,以下に記すA~Cの3つが古来より知られている。

(A)平安時代末に成立した史書『日本紀略』に,「延暦十九年六月(中略)癸酉,駿河国言,自去三月十四日,迄四月十八日,富士山嶺自焼,晝則烟気暗瞑,夜則火光照天,其聲若雷,灰下如雨,山下川水皆紅色也」とある.延暦十九年に噴火が三月十四日から四月十八日まで(800年4月11日~5月15日)ほぼひと月続いたこと,噴煙のために昼でも暗く,夜は噴火の光が天を照らし,雷のような鳴動が聞こえ,火山灰が雨のように降ってふもとの川が紅色に染まったことが記述されている.

(B)同じく『日本紀略』に,「延暦廿一年正月(中略)乙丑(中略)駿河相模国言,駿河国富士山,晝夜燎,砂礫如霰者,求之卜筮,占曰,于疫,宜令両国加鎮謝,及読経以攘殃(中略)五月(中略)甲戊,廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞道也」とある.富士山が噴火して砂礫があられのように降ったことを,駿河国と相模国の国司が延暦二十一年正月八日(802年2月13日)に報告してきている.同年五月十九日(802年6月22日)には富士山の噴火による砕石によってふさがれた足柄路を捨てて,箱根路(筥荷途)を開いたことが記されている.なお,この箱根路は約1年後に廃され,足柄路が復旧された.『日本紀略』に「廿二年(中略)五月(中略)丁巳(803年5月31日),廃相模国筥荷路,復足柄舊路」とある.
以上AとBの二つの記述からは,(1)延暦噴火の最初のステージが,延暦十九年の三月~四月にかけてほぼひと月つづいた降灰の激しい噴火であったこと,(2)さらに延暦二十年から二十一年初頭?にかけて降灰の激しい噴火があり,噴火堆積物によって旧道がふさがれてしまったこにと,の2点がわかる.なお,以上二つの記述の出典を『日本後紀(にほんこうき』とする研究や解説文がしばしば見られるが,『日本後紀』の該当年の巻は現存しておらず,正しくは『日本紀略』である(この時代について『日本紀略』はおおむね『日本後紀』から抄出しているが,『日本後紀』の本文そのものではない点に注意が必要である)

(C)以上二つの記述のほか,平安朝廷に仕えた都良香みやこのよしかが9世紀後半に著した『富士山記』(11世紀成立と言われる漢ほんちょうもんずい詩文集『本朝文粋』にふくまれる)には,「山東脚下有小山,土俗謂之新山,本平地也,延暦廿一年三月,雲霧晦冥,十日而後成山,蓋神造也」とある.延暦二十一年の三月に富士山の東斜面において噴火?が生じ10日後までに新山が誕生したことを伝え聞いたという記述である.
 つじ(1992)は,この史料にみられる「新山」を現在の富士山東斜面にある「小富士」と呼ばれる尾根状の凸部であると解釈し,延暦噴火時の側火山と考えた.現在の小富士の表面は不均質な岩質の緻密な火山岩からなる大小のブロックでおおわれており,スコリアはほとんどみられない.仮に側火山体の一部とするなら,スコリア丘ではなくタフリングの一部であろう.しかし,タフリングに通常ともなうべき火口地形がないため,歴史時代をふくむ新しい時期の噴火の産物ではなさそうである.津屋(1968)も,小富士を富士火山の旧期側火山と考えている。

 一方,「宮下文書」の延暦噴火にかんする記述は詳細かつ膨大である.それらの主要なものは小山(1998b)によって翻刻されている.
 小山(1998b)は,噴火堆積物と古記録両面からの検討をおこない,「宮下文書」の史料的価値の検討ならびに延暦噴火の規模や様相の解明を試みるとともに,延暦噴火による古代東海道の変遷問題について議論した.小山(1998b)によって得られた知見を以下に挙げる.
1.北東斜面に西小富士噴火割れ目をみいだし,そこを起源とするSb-aテフラの分布を明らかにした.富士山北東麓を広くおおう鷹丸尾溶岩と檜丸尾第2溶岩は,西小富士噴火割れ目を流出源とするように見える.西小富士噴火割れ目は延暦二十一年(802)の噴火記録(上記C)に対応すると考えられる.また,北西斜面の天神山-伊賀殿山噴火割れ目も,延暦噴火の際の火口である可能性がつよい.
2.「宮下文書」の延暦噴火記事には,明らかな地質学的誤りや大幅な誇張があるが,地質学的事実と矛盾しない部分もある.注意を要する史料ではあるが,少なくともその噴火・古地理記事にかんしては口碑伝承や消滅文書中にあった真実の断片を拾っている箇所があると考えられるため,今後もその内容を検討する価値がある.
3.延暦噴火前の東海道が富士山の北麓を通っていたとする「宮下文書」の記事は,噴火堆積物の分布や古地理から判断すれば,むしろ自然である.しかし,歴史地理学的側面から考えると,北麓通過説には不利な点が多い.おそらく古代東海道は延暦噴火前も富士山南麓にあって,延暦噴火時に降灰やラハールの被害が出た御殿場付近の街道の使用を,被害の拡大を恐れて一時的に停止したというのが真相であろう.

富士山の歴史噴火総覧小山真人 山梨県富士山科学研究所より 抜粋掲載
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.mfri.pref.yamanashi.jp/yies/fujikazan/original/P119-136.pdf

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

富士山頂上 浅間大社 奥宮 & 富士山頂上 久須志神社ついて

富士山は 国有地国立公園すが 富士山の8合目から上は富士山本宮浅間大社の所有管理する 奥宮境内地です

・〈奥宮〉富士山本宮浅間大社 奥宮(富士山頂上)

一緒に読む
富士山頂上 浅間大社 奥宮 & 富士山頂上 久須志神社

富士山頂上 浅間大社 奥宮(ふじさんちょうじょう せんげんたいしゃ おくみや)は 元は富士山興法寺〈現 村山浅間神社〉の大日堂「表大日」・富士山頂上 久須志神社は(ふじさんちょうじょう くすしじんじゃ)は 元は須走浅間神社の薬師堂「裏薬師」でした どちらも明治の神仏分離令により仏像が取り除かれ 富士山浅間大社の奥宮として管理されることになりました

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富士山頂上 浅間大社 奥宮 富士宮口登山道を登った地点 山頂の南側
富士山頂上 久須志神社は 吉田口・須走口を登った地点、山頂の北東側
どちらも神仏習合していました 奥宮は大日堂 久須志神社は薬師堂でしたが神仏分離令により 仏像が撤去されて神社現在に至ります

 現在 久須志神社は 富士山本宮浅間大社 奥宮の末社という扱いとなっていますが 元々は 富士山東口本宮 冨士浅間神社須走浅間神社〉の管轄であったようです

内院散銭富士山の噴火口である「内院」にお金を投げ入れる行為〉の権利について

内院散銭権利は 日本の象徴 富士山の所有権相当しました

内院富士山の噴火口 そこは富士山の本尊である浅間(仙元)大菩薩・富士浅間大神の御座所と考えられたは 各登山道の頂点あり 登山道ごとに各参銭所があり 多くの参銭を有していましたが 参拝者の大小有無による金銭の収益だけではなく 時の権力者は 仏の象徴と現実の富を得るために 覇権を争っていました

富士山 4筋の登山道 甲斐側が吉田口 駿河側が須走口・須山口・大宮村山口

4筋の各登山口の頂上には それぞれ・吉田須走拝所〈八合目の大行合で合流の先は一本の道となり頂上へ至る〉・須山拝所・村山拝所の三ヶ所がありました

内院散銭の権利の変遷

戦国時代に駿河国で栄華を誇った 今川氏は・宮口・村山口の登山道〈村山拝所〉を 掌握していました

富士山 村山口の登山道の起点に鎮座する村山浅間神社(富士宮市村山)

村山浅間神社(富士宮市村山)

一緒に読む
村山浅間神社(富士宮市村山)

村山浅間神社(むらやませんげんじんじゃ)は 富士山 村山登山道の起点となった場所で かつては 富士山興法寺(ふじさんこうほうじ)と呼ばれ 富士山信仰の修験者の修行の場でした 現在も境内には神仏習合の名残りとして浅間神社とともに冨士山興法寺大日堂が祀られています

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しかし 今川氏は桶狭間で織田信長公に敗れてから衰退し 駿河の地を武田氏に攻められます
武田氏は「須走口」に内院散銭与えたと伝わります
〈須走浅間神社は内院の賽銭を修造費に充てることが認められた とする〉

富士山 須走口(東口)の登山道の起点に鎮座する東口本宮冨士浅間神社〈須走浅間神社〉

須走浅間神社東口本宮冨士浅間神社〉(駿東郡小山町須走

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富士山東口本宮・須走口登山道 冨士浅間神社〈須走浅間神社〉

富士山東口本宮 冨士浅間神社(ふじさんひがしぐちほんぐう ふじせんげんじんじゃ)は 富士山須走口(東口)登山道の起点となる〈須走浅間神社〉で 富士山 世界文化遺産 構成資産の一つです 大同2(807)年創建で 富士山噴火〈延暦21年(802)〉時の鎮火祭の斎場であった跡地(現在の社地)に祀られた東口(須走口)本宮として 古来より崇敬を集めます

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その後 1582年前半)甲 武田家の滅亡により その後 徳川家康公が駿河 甲斐を制し 内院散銭権利を得ることになります

そして 徳川家康公は 富士山本宮浅間大社に1609年 内院散銭の取得権利を与えます

しかし 富士の御山の頂上では 内院散銭既得権は残り続けたようで 江戸時代には 須走VS富士宮(本宮)の争いながらも 村山 須走 大宮の三社で分け合い 各登山道入口の浅間神社はそれぞれの登山道の山役銭を徴収管理していたらしく

元禄16年(1703年)散銭や薬師堂(現・久須志神社)管理の権利を巡り 東口本宮冨士浅間神社〈須走浅間神社〉の神主や御師らが 富士本宮浅間大社(富士宮)の大宮司 富士信安を寺社奉行に訴え出るという「元禄の争論」も勃発しました

安永元年(1772年)須走村が山頂の支配権は須走(東口本宮冨士浅間神社)にあるとして富士本宮浅間大社を訴える「安永の争論」も起こりました
此の時 三奉行勘定奉行・町奉行・寺社奉行裁許により 富士山八合目より上部は富士山本宮浅間大社(富士宮)のものと定められました

須走としては 不本意であったであろうと推測できます

神君・徳川家康の尊崇した富士山本宮浅間大社への内院散銭決定しました

・富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)駿河国一之宮

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富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は 第7代 孝霊天皇の時 富士山の噴火で国内が荒れ果てた この山霊を鎮祭する為 第11代 垂仁天皇が 浅間大神を山足の地に祀ったのが創祀 第12代 景行天皇の時には 日本武尊が 山宮の地に大神を祀り 大同元年(806)には 坂上田村麿が勅命に依り 社殿を現在の大宮の地に造営し 神霊を遷座した東海最古の名社です

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 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

R138号線 須走ICを下りてすぐ 駐車場があり
麻布三元講 講碑群 の横に 南側の鳥居が建ちます

鳥居はくぐらず そのまま鎌倉往還〈境内のすく脇を通る〉を通って 東側の参道入り口に向かいました

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富士山東口本宮 冨士浅間神社駿東郡小山町須走に参着

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鳥居の扁額には 富士山ではなく 不二山 とあります

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左手には 手水舎があり 清めます

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右手には 社務所があります

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石畳の参道の先には 楼門(御神門)が見えます

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楼門の手前には 富士山の溶岩の上に狛犬が構えます 中々見ない構図です

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楼門は 一段高い社地に建ちます

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楼門 ろうもん(御神門)

二階建ての隋神門(ずいじんもん)を特に楼門と呼び、上層の周囲に高欄付きの縁を回(めぐ)らしている。御門の神様である櫛岩窓神(くしいわまどのかみ)(向かって右)・豊岩窓神(とよいわまどのかみ)(向かって左)が隋神として配神されている。貞享(じょうきょう)二年(1685)、小田原城主の稲葉丹後守が鳥居と共に楼門を修繕したと伝えられる。
しかし、宝永の大噴火(1707年)により社殿と共に大破し、幕府へ再建の願いが出されている。現在の楼門は、明四年(1767)隋神が寄進された当時の
ものと考えられる。

現地立札より

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楼門にかかる扁額は石なのだろうか 東口本宮 と刻まれています

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一礼をして 楼門くぐり抜けます

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楼門の先には 両脇に玉石が敷かれた中を 真っ直ぐに参道が伸びていて

拝殿にすすみます 

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拝殿の扁額には 富士山東宮 と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

桓武天皇延暦二十一年(802)正月 富士東脚噴火したので 斎場を設けたのが当社の始り と記しています

【抜粋意訳】

静岡縣 駿河國駿東郡須走村大字須走字日向

縣社 淺間(アサマノ)神社

祭神 木花耶姫(コノハナサクヤヒメノ)

相殿 大己(オホナムチノ)
   彦火々出見(ヒコホホデミノ)命

当社所謂 富士東口の本宮なり.桓武天皇延暦二十一年正月富士東脚噴火し、雲霧晦冥日を経て止まず頻り震動して砂礫飛散の如し其時國司郡司 鎮火祈祷の為め、富嶽東須走の斎場を設け、を行ふ、之れ当社地なり四月初申のに至り初めて鎮定す、即ち報賽の為め是地殿創建せり、明細帳に云く大同云々、爾国司郡司の修繕たり、て天至り、甲州武田氏厚く富社を崇敬し社殿修繕し、神領を寄進せり、当時の文書今に在す、後ち寛永年中當国主駿河内府、寛文三年相州小田原城主 稲葉美濃守、貞享三年同稲葉丹後守、元禄四年岡城主 大久保氏相次いで崇敬し、社殿の修造怠らざりしが、
寶永四年十一月、び富士中腹噴火し、砂塵雨ること丈餘、是時 古器古文書を殆んど失ふ、甚だきに依り、大久保氏より幕府へ上地す、当社土地共に幕府の直轄となり、社地の砂礫除き方等、幕府より本郡に命ぜられしも、事社殿にばす、是に於て江戸府内勧財の允許を得、享保三年に至り社殿修造成る次いで寶暦年中、大久保氏是地を領するに及び、同十三年修造、以来世々大久保氏の修造たり、明治八年二月郷社に列せられ、同十九年一月縣社に昇格す。

社殿は・・・・・

境内神社 日枝神社 山神社 琴比羅社

例祭日  五月七日

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

富士山東口本宮 冨士浅間神社駿東郡小山町須走 (hai)」(90度のお辞儀)

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富士山 世界文化遺産 構成資産と浅間神社 の記事を見る

一緒に読む
富士山 世界文化遺産 構成資産 と 浅間神社について〈Fuji World Heritage Sites and Sengen Shrine〉

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています