実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

別宮大山祇神社(今治市別宮町)

別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)は 社伝によれば 大宝3年(703)第42代文武天皇の勅命により 和銅5年(712)大領の越智玉澄(おちたまずみ こう)が 日本総鎮守 豫国一之宮 大三島鎮座大山祇神社の別宮〈地御前(ちごぜん)として 越智郡日吉郷に勧請創建したことに始まります

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

別宮大山祇神社(Bekkuoyamazumi shrine

 [通称名(Common name)]

別宮さんべっくさん

【鎮座地 (Location) 

愛媛県今治市別宮町3-6-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大山積大神(おほやまづみのおほかみ)

《配》上津姫(かみつひめのかみ)
   下津姫(しもつひめのかみ)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

家内安全除厄(災)招福諸願成就 各産業の繁栄・守護交通安全海上安全

【格  (Rules of dignity)

・讃岐国一之宮 大山祇神社の別宮〈地御前(ちごぜん)

【創  (Beginning of history)】

日本総鎮守三島地御前

別宮大山祇神社由緒

御祭神 大山積大神(おほやまつみおかみ)

 御祭神 大山積大神(おおやまづみのおおかみ)は、天照大神の兄神で、山の神々の親神にあたられて(古事記 日本書紀)、和多志大神(わたしのおおかみ)とも云はれ(伊予国風土記)、日本民族の祖神として、また、地神、海神兼備の大霊神として海上の安全、交通、産業の守護をはじめ日本の国土全体を守護し給ふ神であるところから、古代より日本総鎮守と尊称される。

 当神社は、和銅五年(皇紀一三七一年 西暦七一二年)越智玉澄(たまずみ)公により、日本総鎮守 大山祇(おおやまつみ)神社(大三島町 元国幣大社)の地御前(ちごぜん)として勧請(かんじょう)創建せられ(豫陽盛衰記)伊予国一の宮の別宮として、創建以来、代々の領主、藩主等は勿論、人々に広く篤く崇敬されてゐる。

現地案内板より

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【由  (History)】

神社由緒

和銅5年(712)大領の越智玉澄公により、伊予一ノ宮、大山祇神社の地御前として勧請創建され、その別宮として、神殿はじめ各建造物等、本社に異ならず壮観だった。(豫陽盛衰記)
 遠くは、元亨2年(1322)の兵乱に、近くは昭和20年の空襲に災火に罹ったが、創建以来「別宮さん」として人々の崇敬篤く現在に至っている。
 因みに、拝殿は、天正3年(1575)来島城主の村上三郎九郎越智通総が再建し奉った(棟札)もので、当地方唯一の純和様神社建築で、県指定有形文化財である。
 隣接の南光坊(55番札所)は、当社の供僧八坊の内の一坊。
古くは弘法大師、正応2年(1289)には、一遍上人が、当社を参詣されたこと、当社が番外札所とされていること等に相まって両所参りが習わしである。
 境内の大楠は、樹齢350年以上と推定されている。

愛媛県神社庁HPより http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=792

【境内社 (Other deities within the precincts)】

阿奈婆神社《主》磐長姫命大三島の阿奈波神社の別宮

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阿奈婆神社 由緒

このお宮は昔から阿奈婆さんといって親しまれているお宮で、大三島の阿奈婆神社から勧請申し上げたお社です。
ご祭神・磐長姫大神は本社の祭神・大山積大神のご長女にあたられ、大変ご長命にあらせられた上、福徳円満の神様で、
「長生きの神」「福徳円満の神」としてご神徳の高い神様であります。
また、特に「下の病」の治癒にすぐれた力をお持ちの神様として、崇敬者の祈願報賽のため遠近より参拝する人が四時絶えません
現地案内紙より

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清高稲荷神社《主》宇加之魂神
荒神社《主》三宝荒神,大穴牟遅神

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奈良原神社《主》伊佐奈伎命,宇気母知命,寛成帝命,権中納言門脇命,細野緒神〈合祀 門脇神社 細野神社〉

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

・〈本宮〉大山祇神社(今治市大三島町)

一緒に読む
大山祇神社(今治市大三島町宮浦)〈伊豫国一之宮〉

大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)は 社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称し 歴代朝廷の尊崇篤く 延喜式 名神大社に列し 伊予国一之宮とされ 全国津々浦々に御分社が奉斎される四国唯一の大社 創建は 神武天皇御東征の時 祭神の子孫 乎知命(おちのみこと)が 瀬戸内海 芸予海峡の要衝 御島(大三島)に鎮祭したと云う

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

別宮大山祇神社(今治市別宮町)は
社伝によれば 大宝3年(703)第42代文武天皇の勅命により 和銅5年(712)大領の越智玉澄(おちたまずみ こう)が 日本総鎮守 豫国一之宮 大三島鎮座大山祇神社の別宮〈地御前(ちごぜん)として 越智郡日吉郷に勧請創建したことに始まります

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

大領の越智玉澄(おちたまずみ こう)が 創建した もう一つの三島神社

別宮大山祇神社(今治市別宮町)を創建した 越智玉澄(おちたまずみ こう 奈良時代初期宇摩の大領に任じられ 上柏町御所に新館を建て住し 毎月 大山祇神社(今治市大三島町)に参詣していました 年老い出来なくなり 養老4年(720)旧8月23日に大山祇神社の神霊を八綱浦三津名岬加茂川上冠岡の地に勧請し それより此の地を三島と云う様になった とする伝承を持つ三島神社

三島神社四国中央市三島宮川

一緒に読む
三島神社(四国中央市三島宮川)〈旧市名(伊予三島市)〉

三島神社(みしまじんじゃ)は 社伝によれば 創建は 奈良時代初期 越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 宇摩の大領に任じられ 上柏町御所に新館を建て住し 毎月 大山祇神社(今治市大三島町)に参詣していた 年老いて毎月の参詣が出来なくなり 養老4年(720)大山祇神社の神霊を〈現在地〉に勧請したのが始まりとします しかし境内には 二千年以上前の磐座(いわくら)〈古代祭祀の遺跡〉があります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR予讃線 今治駅から 宝来通りを経由して北へ約700m 徒歩10分程度
R317号線沿いに大鳥居が建ちます

別宮大山祇神社(今治市別宮町)に参着

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一礼をして 大鳥居くぐります

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狛犬の脇にある自然石の社号標には 日本総鎮守三島地御前 大山祇神社 とあります

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石燈籠が建つ 石畳み参道が真っ直ぐに伸びていて 参道の右手には境内社が祀られていて 前方には拝殿が建ちます

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社殿は 透塀に囲まれていますが その前方の参道には 神橋があります
神橋の下には 実際には 川はありません かつては流れがあったのでしょうか

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神橋に刻まれる神紋は 大山祇神社の社紋同じ 隅切折敷縮三文字(すみきりおしきちぢみさんもんじ)

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拝殿にすすみます 

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建造物 別宮大山祇神社拝殿

 和銅年間(七〇八~七一四)、越智玉澄公が大山祇神社の地御前としてこの地に勧請した。この拝殿は天正三年九月十二日五七五年)来島城主 村上三郎九郎 越智通総が再建し奉ったものであると、棟札に記されている。

 この拝殿は、間口五間、奥行四間、平屋切妻造檜皮葺の建物である。

 昭和十二年社殿新築のとき、この拝殿を他に移して絵馬殿に使っていたが、昭和二十年の戦災で新社殿が焼失したので、元の位置すなわち現在地にもどして拝殿とし、昭和三十七 解体修理復原工事を施したものである。

 棟札写及び風蝕、小屋束の形式等から天正の頃と思われる。当地方唯一の純和様神社建築である。

 他に谷文晁画神馬絵馬(市指定文化財)、大樟(市指定天然記念物)がある。
昭和四十年三月二十九日指定 愛媛県教育委員会

現地案内板より

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拝殿にも 神紋 隅切折敷縮三文字(すみきりおしきちぢみさんもんじ)

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

大楠と3匹の狸』〈『今治の伝説』(大沢文夫 昭45)〉に記される伝承

別宮の大山祇神社(別宮町3丁目)の境内の大楠と3匹の狸の物語があります

117.大楠と3匹の狸

 別宮の大山祇神社(別宮町3丁目)の境内に、何かかえもあろうかといわれるほどのとても大きな楠の木があって、昼でも薄暗いくらい枝が四万八方に広がっておりました。
 ここに、いつのころからか3匹の姉妹の狸が住んでいました。その名を「お奈遠」(おなを)、「お佐遠」(おさお)、「お袖」(おそで)と呼んでおりました。
―楠の木と関係が深いところから、別に3匹の狸を「大楠さん」とも言っています。
―これらの狸は、とても賢かったそうですが、時々妙なものに化けて、参拝者に意地の悪いことをして困らせることがありました。(別にそんないたずらをしたことはなく、賢くて気だてが優しく、また、何でも知っていた上に、人々の願いをはっきりと聞いてくれたという人もいますが、古老の間では、時々意地の悪いことをしていたという話を多く耳にします。)
しかし、別宮の大山祇神社と隣会わせにある南光坊(真言宗、別宮町3丁目)の快道和尚―弘化3年(1846)~大正12年(1923)、頭脳明せきな上に体格にも恵まれた傑物であったといわれています。
―の言うことは非常によく聞きました。これらの3匹の狸は、狸がくれならぬ神通力を使って、実際にその場にいて普通の人には姿を見せないでいろいろなことをしました。ところが、快道和尚にはよく見えたそうで、こんなおもしろい話があります。
快道和尚がだれもいない縁側で、なれなれしく「これこれ、お奈遠や、そこで何をしているのかね。」と言うので、側にいた人が不思議に思ってだれかいるのか尋ねると「そこでお奈遠が日なたぼっこをしているのだよ。」と言われたそうです。
ところで、ある時、金比羅堂の屋根の上に楠の木の枝がのしかかっていて、風が吹くと屋根をたたいて瓦をこわしてしまうので、村人たちが協議の上、これを切ることにしました。のこぎりやなたを持ちよって、木を切る用意をして木の下に集まると、何とそれまで屋根すれすれにはっていた枝が、お天道さんの方へ向きを変えていました。快道和尚が、3匹の狸に頼んで方向を変えてもらったのだろうということが、村人たちの間でも、もっぱらうわさされました。
その後、村人たちの勧めもあって快道和尚は、神主さんと相談して、楠の大木のほら穴の側に祠を建ててからは、狸が人を化かして困らせるというようなことは一切なくなりました。
今度の太平洋戦争で、空襲を受け焼けてしまったので、別に新しく楠の木を移植してその端に祠を建てました。これらの祠は、それぞれ「お奈遠大明神」「お佐遠大明神」「お袖大明神」と呼ばれ、お願を掛けに来る人も多いそうです。お袖大明神の楠の木だけは戦前のもので、わずかに昔の名ごりをとどめています。

所在地:今治市別宮町

今治商工会議所HP今治地方の伝説集より
https://www.imabaricci.or.jp/%E4%BB%8A%E6%B2%BB%E5%9C%B0%E6%96%B9%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E9%9B%86/#ookusuhasitosanbikiimabaricci.or_.jp-今治地方の伝説集

別宮大山祇神社(今治市別宮町)に (hai)」(90度のお辞儀)

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・〈本宮〉大山祇神社(今治市大三島町)

一緒に読む
大山祇神社(今治市大三島町宮浦)〈伊豫国一之宮〉

大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)は 社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称し 歴代朝廷の尊崇篤く 延喜式 名神大社に列し 伊予国一之宮とされ 全国津々浦々に御分社が奉斎される四国唯一の大社 創建は 神武天皇御東征の時 祭神の子孫 乎知命(おちのみこと)が 瀬戸内海 芸予海峡の要衝 御島(大三島)に鎮祭したと云う

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