実践和學 Cultural Japan heritage

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安房國の 式内社〈6座(大2座・小4座)〉について

安房國の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 安房國6座(大2座・小4座)の神社のことです

安房國(アワノクニ)について

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安房國の名称

『古語拾遺〈大同2年(807年)〉』に記される神武天皇元年の安房開拓に纏わる忌部(インベ)氏の伝承

阿波国(アワノクニ)〈現 徳島県〉において 穀物や麻を栽培していた天富命(アメノトミノミコト) 東国により良い土地を求めて 阿波の忌部氏を率いて 黒潮に乗って 房総半島南端の布良の浜に上陸して 開拓を進めたと伝わります
そして 阿波(アワ)の忌部(インベ)氏の住んだ所は 「阿波(アワ)」の名をとって「安房(アワ)」と呼ばれたとされています

安房國の歴史

安房國は 律令時代の律令国の一つですが 律令制以前に この地域は 阿波国造と長狭国造の2つの国造が置かれていまし
律令制においては 令制国である上総国の一部となりますが 養老2年5月2日(718年6月4日)上総国のうち阿波国造と長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を分けて安房国としました

安房國の位置 と 式内社の分布

現在の千葉県南部〈房総半島の南部〉で 房州(ぼうしゅう)とも呼ばれました

現在は「安房地域」と称します〈千葉県館山市南房総市鴨川市安房郡鋸南町の3市1町圏内

国立国会図書館デジタルコレクション『千葉県安房郡誌』大正15年(1926)著者 千葉県安房郡教育会 編

安房地方の古代祭祀遺跡・式内社分布図

館山市立博物館HPよりhttp://history.hanaumikaidou.com/archives/7826

安房國の〈6座〉(大2座・小4座) 現在の論社 10神社について

安房國の郡は2つに別れています

安房郡 2座(並大)
朝夷郡 4座(並小)

 計   6座

安房郡(アハノコオリ) 2座(並大)

安房坐神社(名神大 月次 新嘗)あはのいます かみのやしろ)(みょうじんだい つきなみ にいなめ)

・安房神社(館山市大神宮)〈延喜式内社 名神大社・安房国一之宮〉

一緒に読む
安房神社(館山市大神宮)〈延喜式内社 名神大社・安房国一之宮〉

安房神社(あわじんじゃ)は 日本神話「天の岩戸」では 天太玉命〈忌部氏の氏神〉が 天照大御神の出現を願い 祭祀を執り行いました 故に 古代の大和朝廷では 忌部氏が・祭祀に必要な鏡や玉・神に捧げる幣帛や織物・威儀物の矛や楯など武具・社殿の造営などを司っていました  日本における全ての産業の総祖神としても崇敬されています

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后神天比理乃咩命神社(大・元名洲神)(きさきのかみ あめのひりのめのみことの かみのやしろ)

・洲崎神社(館山市洲崎)〈延喜式内 大社・安房國一之宮〉

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洲崎神社(館山市洲崎)〈延喜式内 大社・安房國一之宮〉

洲崎神社(すのさきじんじゃ)は 古代氏族の忌部氏の開拓神「天富命(ameno tomi no mikoto)が 初代天皇 神武天皇の勅命を受けて 肥沃な土地を求めた時に 阿波忌部氏の一部を率いて房総半島に上陸しました そして 開拓を行う時に 忌部族の総祖神「天太玉命」の后神「天比理乃咩命」を祀ったのが当社と伝わります

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・洲宮神社(館山市洲宮)

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洲宮神社(館山市洲宮)〈延喜式内 大社・安房國一之宮の論社〉

洲宮神社(すのみやじんじゃ)は 元々は南側の魚尾山(とおやま)山上に鎮座しましたが 文永10年(1273)火災により古書などを焼失して現在地へ遷座します 明治5年(1872)教部省が式内社と認定しますが 翌6年(1873)洲崎神社を式内社であると覆し 式内社論争となります 両社とも近代社格制度では縣社に列格されました

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朝夷郡(アサヒナノコオリ) 4座(並小)

天神社(あまつ かみのやしろ)

・天神社(南房総市白浜町)
〈下立松原神社に合祀〉

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天神社〈下立松原神社の境内〉(南房総市白浜町)

天神社(あまつかみのやしろ)は 下立松原神社の拝殿の向かって右側に鎮座します 高御産巣日神(タカミムスビノカミ)神産巣日神(カミムスビノカミ)を祀る式内社の論社で 本郷 谷(ヤツ)部落から昭和3年に下立松原神社本殿に合祀されました その後 昭和12年(1937)に改めて天神社を祀ったものです

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・平館天神社(南房総市千倉町)

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平館天神社(南房総市千倉町)

平館天神社(へだて てんじんしゃ)は 平舘地区 名戸川原(なづがっぱら)と呼ばれる水田〈湿地帯〉の中にある磐座の中に社が祀られています 古代には゛火雷天神゛゛田の神天神゛と称されていて 口碑では 延喜式内社 安房国 朝夷郡 天神社(あまつ かみのやしろ)と伝わります

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莫越山神社(なこしのやまの かみのやしろ)

・莫越山神社(南房総市宮下)

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莫越山神社(南房総市宮下)

莫越山神社(なこしやまじんじゃ)は ご神体山〈莫越山〉の麓に遥拝所として造営され 往古境内は広大 神殿は壮麗でしたが 中世を経て荒廃したと社伝は云い 古代の祭祀遺跡が周辺に点在し 古くから信仰があることがわかります 式内社の論社としては ここ宮下と沓見の2社が挙げられます

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・莫越山神社(南房総市沓見)

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莫越山神社(南房総市沓見)

莫越山神社(なこしやまじんじゃ)は 社伝には神武天皇元年 天富命が 阿波の忌部の諸氏を率いて安房に開拓の為 移り住んだ時 安房の東方の開拓をした 天富命の孫 小民命(おたみのみこと)その御子 御道命(みぢのみこと)が 莫越山に手置帆負命を祀り 彦狭知命を合祀したと伝わります 式内社の論社としては ここ沓見と宮下の2社が挙げられます

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下立松原神社しもたちまつはら かみのやしろ)

・下立松原神社(南房総市白浜町滝口)

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下立松原神社(南房総市白浜町滝口)

下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)は 『古語拾遺〈大同2年(807年)〉』に記される神武天皇元年の安房開拓に纏わる忌部氏の伝承が残る古社ですが 同名の下立松原神社が 白浜町と千倉町にそれぞれ鎮座していて 双方ともに『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社の論社となっています

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・下立松原神社(南房総市千倉町)

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下立松原神社(南房総市千倉町)

下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)は 『古語拾遺』〈大同2年(807年)〉に記される神武天皇元年の安房開拓に纏わる忌部氏の伝承が残る古社です 鎌倉幕府を開いた源頼朝公が自らが書写した大般若経600巻を奉納しています 又 同名の下立松原神社が千倉町と白浜町にそれぞれ鎮座していて 双方ともに式内社の論社となっています

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高家神社(たかいへの かみのやしろ)

・高家神社(南房総市千倉町南朝夷)〈料理の祖神「磐鹿六雁(いわかむつかみの)命」〉

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高家神社(南房総市千倉町南朝夷)〈料理の祖神「磐鹿六雁(いわかむつかみの)命」〉

高家神社(たかべじんじゃ)は 料理の神様「磐鹿六雁命(いわかむつかみのみこと)」を祀り 料理関係者や味噌・醤油などの醸造業者からの崇敬が非常に篤い 文政2年(1819)京都の吉田御所に届け出て証を願い 神明社から改称し 高家神社が再興されたものです

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東海道に鎮座する 731座『延喜式神名帳』の所載一覧 に戻る

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東海道に鎮座する 731座『延喜式神名帳』の所載一覧

『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂されました
当時の「全国の官社」(祈年祭(毎年2月)に神祇官から幣帛を受ける神社)の一覧表が所載されています

このページは
「東海道」に鎮座する(731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679)神社の一覧表です

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています