荒田神社(あらたじんじゃ)は 天平神護元年(765年)創建の古社〈兵火により荒廃し 寛文年間(1661~1672)現在地に社殿が復興〉鎮座地名は゛安楽田(あらた)゛『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とされ 中世以降に隆盛を極めた加美町の二宮荒田神社と式内論社の本家争いをしたと伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
荒田神社(Arata shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県多可郡多可町中区 安楽田(あらた)982
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》少名彦命(すくなひこなのみこと)
五百箇磐石命(いほついわむらのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
荒田神社(あらたじんじゃ)
- ご祭神 少名彦命(すくなひこなのみこと)
五百箇磐石命(いほかいわれいしのみこと)創立年代は明らかでありませんが、慶長(けいちょう)年代 安楽田の東端道路の北側に建立されていました。寛文(かんぶん)八年(一六六八)九月、荒田町大火の際、神社を始め、別当(べっとう)大乗寺(だいじょうじ)などとともに全部消失してしまいました。
この頃、既に北方の「貝野村」は、人家も少なく荒田町に合併されていたので、「貝野村」の氏神「大歳神社」の地を拡張し、寛文十一年に合祀(ごうし)されました。
鳥居は元禄(げんろく)六年(一六九四)、石燈籠(いしどうろう)は寛保(かんぽう)三年(一七四三)、狛犬(こまいぬ)(現存しない)は寛保四年(一七四四)、そして、拝殿(はいでん)・鐘楼(しょうろう)・随身門(ずいじんもん)が延享(えんきょう)三年(一七四六)に建立されています。
延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)(九〇五年)に「荒田神社」天平神護(てんぴょうじんご)元年(七六五)とあり、加美町の二宮荒田神社と本家争いをしたとされています。鳥居から随身門を経て社殿に至る参道は、広大であり、大乗寺跡などもあります。
歴史街道
現地案内より
【由 緒 (History)】
由 緒
天平正宝元年(729)、創立。
女神、この地に降臨されしを奉齋。延喜年代、田村麻呂将軍の崇敬あり。社殿改修。白馬六十疋奉る。
天平年間(729~748)、兵火により荒廃。
寛文年間(1661~1672)、社殿復興。
延享3年(1746)、拝殿建立。
明治7年(1874)、村社に列せられる。2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6312061.html
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・本殿の覆屋より 中の本殿を覗く
・本殿の覆屋
・本殿の覆屋 背面の拝所
・拝殿内 拝所
・拝殿内 絵馬
・拝殿
〈本殿の向かって右側 境内社 祠群〉
・〈上段〉稲荷社
・〈下段 向かって右〉金比羅宮・〈下段 中央〉天照皇大神宮・〈下段 向かって左〉八幡宮
・妙見宮
〈社殿の向かって左側 複数の拝所〉
・参道
・隋神門
・社頭の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
播磨國の一之宮~四之宮
播磨三之宮 住吉神社(加西市北条町)
播磨四之宮 白国神社(姫路市白国町)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多可郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 荒田神社
[ふ り が な ](あらたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Arata no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載のある ゛荒田神社゛について
①和泉國 ②播磨國 ③紀伊國に各々一社 計三ヶ所が記載されています
①和泉國 大鳥郡 陶荒田神社二座(鍬)(すえのあらたの かみのやしろ ふたくら)
・陶荒田神社(堺市中区上之)
陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)は 第十代 崇神天皇の勅により太田田根子〈素盞鳴命十世の孫〉が創建し 社号゛陶荒田(すえあらた)゛は 地名の゛陶邑(すえむら)゛〈古代の陶器生産地〉・人名の゛荒田直(あらたのあたい)〈祖神の祭祀を司る一族〉から付きました
陶荒田神社(堺市中区上之)〈古代の陶器の生産拠点゛陶邑(すえむら)゛鎮座〉
②播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)
・荒田神社(多可町加美区的場)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉
・荒田神社(多可町中区安楽田)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 天平神護元年(765年)創建の古社〈兵火により荒廃し 寛文年間(1661~72)現在地に社殿が復興〉鎮座地名は゛安楽田(あらた)であり ゛延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とされ 中世以降に隆盛を極めた加美町の二宮荒田神社と式内論社の本家争いをしたと伝わります
荒田神社(多可町中区 安楽田(あらた))〈式内社 荒田(あらたの)神社の論社〉
③紀伊國 那賀郡 荒田神社二座(あらたの かみのやしろ ふたくら)
・荒田神社(岩出市森)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めにより 灰燼に帰し 縁起 寄進状 宝物等すべて焼失し 由緒は定かではありませんが 『延喜式神名帳(927年)』には 紀伊國 那賀郡 荒田神社二座(あらたの かみのやしろ ふたくら)と所載される由緒ある古社です
荒田神社(岩出市森)〈延喜式内社 荒田神社二座の論社〉
荒田神社(多可町加美区的場) 御祭神を ゛道主日女命(みちぬしひめのみこと)゛とする説について
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
荒田村の伝承として ゛道主日女命(みちぬしひめのみこと)゛という神があり 父が無い兒(子)を生んだ゛と 当地には゛道主日女命゛の神が居られたと伝えていて
゛盟酒(うけひざけ)を醸すと その子は 天目一命(あまのひとつめのみこと)に向かって奉られた゛とあり
道主日女命と天目一命と契りの伝承が記されています
゛後に その田は荒れてしまったので 故に荒田村と名付けた゛とある文については
現実的な考証をすると 古代 砂鉄の採集としての鉄穴(かんな)流し タタラ製鉄の際の木材の伐採などによる 流域に大量の土砂が堆積して 田が荒れて 荒田(あらた)か?
【抜粋意訳】
一、託賀略記 賀眉里(かみのさと)
賀眉里(かみのさと)大海山(おおうみやま)荒田村(あらたむら)
賀眉は 川上の為 名付けられた
大海は 昔 明石郡の大海の里人がここに至り この山の麓に於いて居住した故 に大海山と云い 松が生えている所です
荒田は この所に神名を゛道主日女命(みちぬしひめのみこと)゛という神があり 父が無い兒(子)を生んだ
そこで 盟酒(うけひざけ)を醸して 田を七町(約7ヘクタール)作ると 七日七夜の間に稲が成熟した
よって 酒を醸し 諸神を集め遣わした
その子に 養う神〈父神〉に酒を潤すように命じると その子は 天目一命(あまのひとつめのみこと)に向かって奉られたので その父であると知られた
後に その田は荒れてしまったので 故に荒田村と名付けた
【原文参照】
鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛について
天目一箇神は 鍛冶の神とされ
『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶であった゛天津麻羅(あまつまら)゛と同神ともされ 別名も多く 天目一命(あまのひとつめのみこと)とも呼ばれます
神名の゛目一箇(まひとつ)゛とは 鍛冶師は 製鉄の時 片目をつぶり 鉄の色を見て温度を見た事によるとも 鍛冶の職業病として 鉄を打つ火の粉によって片目を失明する゛一つ目(片目)゛の意味であろうとされます
゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を祀る 播磨國の式内社について
播磨国は 古くから製鉄や鍛冶が行われていたと伝わり 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を信仰する製鉄・鍛冶の拠点に祀られたと考えられます
①播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)
・天一神社(佐用町東徳久)
天一神社(てんいちじんじゃ)は 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神に從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式』播磨國 佐用郡 天一神玉神社(あめひとつかんだまの かみのやしろ)です
天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉
②播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社
・天目一神社(西脇市大木町)
天目一神社(あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ)は 天正八年(1580)兵火にあい記録類を失い 江戸時代には社地も不明でした 明治維新の後 当時 惣堂天王社のあったこの地を式内社 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の跡地と定め 鎮守である平野神社も合祀され 大正12年(1923)復興されたものです
天目一神社・平野神社(西脇市大木町)〈天目一箇命を祀る古社〉
・青玉神社(多可町加美区鳥羽)
青玉神社(あおたまじんじゃ)は 伝承では 祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命で 初め三国岳の山頂に祀られていた ある時 鳥羽(とりま)の村人が三国山に狩りに行くと 急に背中が重くなり不思議に思いながら下山した 村はずれで急に背中が軽くなり「背中に乗った神様が降りられた」として社を建てたのが現在の社地と云う
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)〈祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命〉
・稲荷神社(多可町中区糀屋)
糀屋稲荷神社(こうじやいなりじんじゃ)は 創建は推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座 天平時代 称徳天皇の崇敬厚く 慶雲3年(706)社殿の建立となり勅使を使わせられ 神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられます 延喜式内社 播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社です
播州糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)〈創建は推古2年(594)〉
・天目一神社(多可町中区間子)
〈加都良神社 境内社〉
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)は 式内社 加都良神社の境内摂社として祀られています 天目一命は 多可町内では他に 青玉神社(山寄上やまよりかみ) ・青玉神社(鳥羽とりま)・西宮神社(清水きよみず)で主祭神として 大歳金比羅神社(鍛冶屋かじや)・加都良神社(間子まこ)では 摂社として祀られています
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)〈加都良神社の境内摂社〉
③播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)
・菅田神社(小野市菅田町)
菅田神社(すがたじんじゃ)は 鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔とされる「菅田(すがたの)首(おびと)」が祀った神社と云われ 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり当社にも住吉神が祀られていきました
菅田神社(小野市菅田町)〈鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命を祀る〉
・住吉神社(小野市中番町)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 「菅田首(すがたのおびと)」が祀ったとされる 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)が分祀し 保安年間(1120~1123)今の地へ遷座したものとされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり 住吉大社の神領として 住吉三神を配祀し 住吉神社と改称されています
住吉神社(小野市中番町)〈延喜式内社 菅田神社(すかたの かみのやしろ)〉
・山王神社(加東市厚利)
山王神社(さんのうじんじゃ)は 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社である・菅田神社(小野市菅田町)・住吉神社(小野市中番町)は 東條川を挟んで その南北の岸に祀られています 同じく論社とされる当社は そこから東條川を上流に向かって4km程遡った辺りの北岸に鎮座しています
山王神社(加東市厚利)〈延喜式内社 菅田神社の論社〉
・八坂神社(小野市中番町)
八坂神社(小野市中番町)は 当地方に゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族〈砂鉄を採集して武器 農具を作成〉が祀った延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされ やがて農業に転換した里人は 農地に適した現在地〈その後 住吉大社神領となる〉に移住 神社も保安年間(1120~1123年)住吉三神を合祀し移転したと云う
八坂神社(小野市中番町)〈゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族の祭祀した神社〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR福知山線 谷川駅から県道77・86号経由で西へ約17.7km 車25分程度
多可町の水田を北上します
社伝に゛慶長(けいちょう)年代 安楽田の東端道路の北側に建立されていました。寛文(かんぶん)八年(一六六八)九月、荒田町大火の際、神社を始め、別当(べっとう)大乗寺(だいじょうじ)などとともに全部消失してしまいました゛
とあるのは この辺りか?
少しわかり難い場所ですが 長い参道の入り口には 鳥居が立っています
荒田神社(多可町中区安楽田)に参着
一礼をして 扁額に゛荒田大明神゛と掲げられている鳥居をくぐり 参道を進みます
神社は 山裾に鎮座します
参道の途中に 山から獣が下りてくるのを防ぐ 防獣柵〈電気柵〉が張られていて 鉄製の門扉が設けられています 解錠して入場します
私の参拝中に 獣が里へ出てもいけないので 再び施錠して 参道を進みます
鉄製の門扉のすぐ先には 延享三年(1746)建立 隋神門〈瓦葺の八脚門〉が構えています
ここから更に なだらかに上る参道を進むと 社殿が見えてきます
整地された境内には 石灯籠が立ち 奥には さらにもう一段高く 壇が設けられていて 立派な社殿が建てられています
拝殿にすすみます
拝殿は開け放たれていて 祭でもあるかのように 榊が祀られていて 手入れがされています
素足になり 拝殿に上がり 幣殿の内部に設けられた拝所に進みます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
祈り終えて 拝殿内で振り返ると 参道が南方向に一直線に伸びています
拝殿の奥には 幣殿・本殿覆屋があり その覆屋の背面には 拝所が設けられています
ここでは 何をどのように祈るのたろうか?
社殿の向かって左側にも 幾つかの拝所が設けられています
社殿の向かって右側には 境内社が祀られています
境内は深い森に覆われていて 地面には苔蒸しているようなところもあり
ふと見ると何匹か゛カエル゛がいます
大きさは アマガエル程ですが みどり色ではなく 初めて見るような色と柄でしたので 御祭神 少彦名命の神使いは゛カエル゛です てっきり神使いかと想い 暫く見ながら゛どのような御告げ゛なのだろうとか 嬉しくて写真を撮りました 帰ってから調べてみると この形態は゛アマガエル゛が 樹皮や落葉の擬態をしているらしい
社殿に一礼をして 参道を戻ります
隋神門をくぐり抜けて 防獣柵扉を再び締めて 参道を鳥居へと向かいます
ここから西方 約3km程の的場にある荒田神社に向かいます
・荒田神社(多可町加美区的場)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 荒田神社について 所在は゛高田庄奥荒田村に在す゛〈現 荒田神社(多可町加美区的場)〉とし
『播磨國風土記』の賀負里の条にあるように 祭神は゛道主日女命゛とし 道主日女命は 父の無い子を生んだが 盟酒によってその父は「天目一命」であると知った とする伝承を載せ
『峯相記』にある゛女体の唐人の束帯赤衣の姿゛は信用できないとも記しています
【抜粋意訳】
荒田神社
荒田は 安良多と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕荒田、
〇祭神 道主日女命〔風土記〕
〇高田庄奥荒田村に在す、〔播磨鑑〕
〇當國二宮也〔頭注〕
〇永萬記云、荒田社、〔上品紙二百帖〕
〇播磨國風土記云、賀負里、〔荒田村〕所以號ニ荒田者、此處在神名 道主日女命、无父而生兒、爲之醸ニ盟酒、作ニ田七町、七日七夜之間、稻成熟、竟乃釀酒集ニ諸神、遣ニ其子捧ニ酒而令養之、於是其子向ニ天目一命而奉之、乃知ニ其父、後荒ニ其田、故號ニ荒田村
峯相記に、二宮荒田大明神者、天平勝寶元年己丑五月七日、女體赤裝而來臨、即少彦名命也、延曆年中、將軍田村麻呂、尊ニ崇此神而定ニ神田、又以ニ勅使奉授ニ正一位、と云るは信用がたし、然れども女體赤裝とあるは、自然に道主日女の故事の遺れるなるべし、
類社
和泉國 大烏郡 陶荒田神社の條見合すべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 荒田神社について 所在は゛今 高多莊荒田村に在り、荒田明神と云゛〈現 荒田神社(多可町中区安楽田)〉とし
『播磨國風土記』の賀負里の条にあるように 祭神は゛蓋 天目一命の妃 天道主日女命を祀る゛とし 道主日女命は 父の無い子を生んだが 盟酒によってその父は「天目一命」であると知った とする伝承を載せ記しています
【抜粋意訳】
荒田(アラタノ)神社
今 高多莊荒田村に在り、荒田明神と云、〔播磨事始、神名帳考証、播磨國圖、神社覈録〕
之を二宮とす、〔峯相記、神名帳頭注〕
蓋 天目一命の妃 天道主日女命を祀る、初此神 父なくして御子生坐き 故田七町を作り、其田に成熟(ナレル)稲もて盟酒を釀て、諸神等を集て、其神子をして酒を捧奉らしむる時に、天目一命に向て杯を奉りき、即其父神なる事を知て、後に其田荒らしたりき、〔播磨風土記〕
稱徳天皇 天平神護元年、神封四戸を充奉らしむ、〔新抄格勅符〕
〔〇按 峯相記、桓武天皇延曆中、坂上田村麻呂専ら此神を敬て神領四至を定む、凡 神殿改造の時は、白馬六十匹を奉り、當國及丹波並に田村麻呂所領なるを以て、其 土貢を充て造宮料とし、其 遷宮の日には、朝廷より勅使を立られ、正一位を授奉ると云り、蓋 土人の傳説也、然れと他書考ふる所なし、姑附て考に備ふ〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 荒田神社について 所在は゛的場村(明細帳に福原村とあり)゛〈現 荒田神社(多可町加美区的場)〉とし
『播磨國風土記』の賀負里の条にあるように 祭神は゛蓋 天目一命の妃 天道主日女命を祀る゛と記しています
【抜粋意訳】
荒田神社
祭神 天目一箇命
道主日女命今按 社傳 祭神少彦名命とあるは 臆測の説なり 其は播磨風土記 託賀郡賀負里〔大海山 荒田村〕云々
所以號ニ荒田者、此處在神名 道主日女命、无父而生兒、爲之醸ニ盟酒、作ニ田七町、七日七夜之間、稻成熟、竟乃釀酒集ニ諸神、遣ニ其子捧ニ酒而令養之、於是其子向ニ天目一命而奉之、乃知ニ其父、後荒ニ其田、故號ニ荒田村とあるによらば
天目一箇命 道主日女命を合せ祭れる神社なるべく思はるればなり祭日 九月九日
社格 郷社(縣社)所在 的場村(明細帳に福原村とあり)(多可郡松井庄村大字福原)
【原文参照】
荒田神社(多可町中区安楽田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について に戻る
播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について