実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

天神社〈美保神社 境外社〉(松江市美保関町)

天神社(あまつかみのやしろ)〈美保神社 境外社〉は 『古事記』神話にある 小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が 海の彼方から天羅摩船(あまのかがみのふね)に乗って寄り帰り来た 我が日本国への上陸の地 出雲の御大御埼(みほのみさき)であるとするならば 神代から鎮座する由緒ある古社となります

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

天神社(Amatsukami no yashiro)〈美保神社 境外社〉 

 【鎮座地 (Location) 

〒690-1501 島根県松江市美保関町美保関821

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》少彦名命(すくなひこなのみこと)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など

【格  (Rules of dignity)

美保神社 境外社
・『古事記』ゆかりの地

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

【由  (History)】

由緒不詳

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

天神社(あまつかみのやしろ)は 美保神社 境外社となります

・美保神社

一緒に読む
美保神社(松江市美保関町美保関)〈延喜式内社・出雲國風土記 掲載社〉

美保神社(みほじんじゃ)は 特殊な形式の本殿〈大社造の二殿が連なった美保造または比翼大社造〉には 向かって・右側の御殿〈三穂津姫命〉・左側の御殿〈事代主神〉を祀ります 『出雲國風土記733 AD.』所載の島根郡 神祇官社「美保社(みほ)のやしろ」・『延喜式神名帳927 AD.』の「美保神社(みほのかみのやしろ)」です

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『古事記』神話にある 小名毘古那神(すくなひこなのかみ上陸の地か?

天神社(あまつかみのやしろ)〈美保神社 境外社〉の祀られる美保関について
『古事記(Kojiki)』〈和銅5年(712)編纂〉神代上巻「大国主神(おおくにぬしのかみ)小名毘古那神(すくなひこなのかみの段」には

大国主神(おおくにぬしのかみが 出雲の御大御埼(みほのみさき)にいた時 小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が 海の彼方から天羅摩船(あまのかがみのふね)に乗って寄り

この神のことは 誰もわからなかったが 久延毘古(くえびこ)〈山田の案山子〉が知っていて 神産巣日神かみむすひのかみ)の手の股またからこぼれて落ちた御子神とわかる
神産巣日神の命令により 大国主神と小名毘古那の二柱の神は 並んで この国〈日本〉を作り堅めました
その後 小名毘古那神は 常世に渡られました と記されています

天神社(松江市美保関町)が 『古事記』神話にある 小名毘古那神(すくなひこなのかみが 海の彼方から天羅摩船(あまのかがみのふね)に乗って寄り帰り来た 我が日本国への上陸の地 出雲の御大御埼(みほのみさき)であるとするならば 神代から鎮座する由緒ある古社となります

『古事記』神話には
我が国は
「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほのあきのみずほのくに)〈豊かな葦原 幾千年も長く水穂の国葦原中国(あしはらのなかつくに)」と呼ばれ

その冒頭には 天地開闢の物語られ 造化三神登場します

天と地が初めて分れ 高天原(たかまがはら)に成りし神の名前は
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ
次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ
次に神産巣日神(かみむすひのかみ
この三柱の神は みな独神で 身を隱したまひき

これは まだまだ国土は若く 固まらず 水に浮く脂のよう 海月(くらげ)のように漂っている状態でした」 とあります

少彦名命は その誕生について 造化の三神の御子であると『古事記』『日本書紀』が語る高貴な神様です
『古事記』 ⇒ 神産巣日神(Kaminusubi nokami) の御子神
『日本書紀』⇒ 高皇産霊神(Takamimusubi nokami)の御子神とされています

このように少彦名命は 手間天神と呼ばれる由来から 天神さま として 古くから祀られています

天神社(あまつかみのやしろ)〈杢井と海崎の中間〉の
背後 裏山には古墳群「天神社 裏山古墳群」〈古墳時代のもの〉があり
「石室が1号~4号 古墳が1号~13号」と数があり 神聖な地とされていることは間違いありません

写真の➁の位置です

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非常に似た言い伝え「少彦名命が粟嶋に舟で到着され 最初に上陸された場所 粟嶋神社(米子市 彦名町)があります

非常に似た言い伝えですが
境内に「御岩宮祠」(おいわきゅうし)という小祠があり
ここは 少彦名命が粟嶋に舟で到着され 最初に上陸された場所であって 極めて霊験あらたかな聖地とされています

但し こちらは粟茎に弾かれて常世(tokoyo)へ渡った少彦名命を祀りますので 常世へ渡る際に 粟嶋に舟で到着され上陸された場所です

『古事記』神話には「その その 小名毘古那神(すくなひこなのかみ 常世国(とこよのくに)へと渡られました」と記されます

・粟嶋神社

一緒に読む
粟嶋神社(米子市 彦名町)

粟嶋神社(あわしまじんじゃ)は 粟茎に弾かれて常世(tokoyo)へ渡った少彦名命を祀ります 木々に覆われた長い石段を登り抜けた 粟嶋の頂上は 天空の輝きを纏い 尋常ではない神々しさを放ちます ひょっとすると この神域は「常世の国」に通じている空間?なのでしょうか

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

御祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)について

造化の三神の御子として 大己貴神(おほなむちのかみ)と共に 葦原中国(あしはらなかつくに)を造られた偉大な神です

その誕生は

『古事記』 ⇒ 神産巣日神(Kaminusubi nokami) の御子神(子供)
『日本書紀』⇒ 高皇産霊神(Takamimusubi nokami)の御子神(子供) とされています造化の三神の御子であると『古事記』『日本書紀』が語る高貴な神様です

その神名は 様々で

『古事記』     ⇒ 少名毘古那神 (sukunahikona nokami)
『日本書紀』    ⇒ 少彦名命 (sukunahikona nomikoto)
『出雲国風土記』  ⇒ 須久奈比古命 (sukunahiko nomikoto)
『播磨国風土記』  ⇒ 小比古尼命 (sukunahikone nomikoto)
『宿那彦神像石神社』⇒ 宿那彦神 (sukunahiko nokami)
『佐香神社』    ⇒ 久斯神 (kusu nokami) ※酒造の神の意味
『手間天神社』   ⇒ 手間天神 (tematenjin)  など

その他 造化の三神の御子であることから「天神(あまつかみ)」として 古くから祀られています

※後年 菅原道真公が 天神(てんじん)さま として祀られるのは 道真公が 五條天神社(京都)〈少彦名命〉をたいへん崇敬しており 各地の天神社(あまつかみのやしろ)〈少彦名命〉にお詣りして 御神威を賜ったことにもよります

少彦名命(すくなひこなのみこと)について 詳しくは 記事をご覧ください

一緒に読む
【御神名(God's name)】 少彦名命 (sukunahikona nomikoto) 

【御神名】 (God's name)    少彦名命 (sukunahikona nomikoto)すくなひこなのみこと 【御神名】の代表的な別名 『古事記』     ⇒ 少名毘古那神 (sukuna ...

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR境港駅から 県道2号で境水道の対岸 島根半島へと渡り 東の美保関向かい進みます
途中 男女岩を過ぎる頃から 対岸に伯耆国の大山(だいせん)〈『出雲風土記』に 火神岳(ほのがみのたけ)の名で登場する 我が国で最も由緒のある山の1つ〉が見えてきます

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杢井と海崎の中間辺りの海岸線に鎮座します
天神社〈美保神社 境外社〉(松江市美保関町)に参着

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ちょうど新しい社屋が坐したころでした 遷座祭〈2019/11/22〉が執り行われる少し前の頃です

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こちらの 天神社(あまつかみのやしろ)には 20年ほど前からお詣りをさせて頂いていて お社が建て替えられたことに 心より感謝申し上げます

いくつかの参拝の記録です

2002/8/21

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2006/8/28

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2008/12/16

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2009/6/8

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2009/12/8

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2014/8/2

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2015/9/1

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2019/3/27

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今回 新しい社号標建てられています

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綺麗に下草の刈られた参道進みます

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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一礼をして参道を戻ります

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おそらく神代に 小名毘古那神(すくなひこなのかみが 我が国上陸された 出雲の御大御埼(みほのみさき)〈美保関〉は この社の前の濱だと想います

この濱の辰巳方角に見える山は 伯耆国の大山(だいせん)〈『出雲風土記』に 火神岳(ほのがみのたけ)の名で登場する 我が国で最も由緒のある山の1つ〉です 隠岐国〈隠岐諸島〉から本土を目指す最大の目印でした
隠岐国から大山(だいせん)へ向かうと 美保関に到着します 常世の国から渡ってこられた 寄り神がこの地に寄られたのでしょう

伯耆国の大山(だいせん) (hai)」(90度のお辞儀)

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

それぞれの文献では 次のように伝承しています

『古事記(Kojiki)』〈和銅5年(712)編纂〉 に記される伝承

神代上巻 大国主神(おおくにぬしのかみ)小名毘古那神(すくなひこなのかみの段では

大国主神(おおくにぬしのかみが 出雲の御大御埼(みほのみさき)にいた時 小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が 海の彼方から天羅摩船(あまのかがみのふね)に乗って寄り

この神のことは 誰もわからなかったが 久延毘古(くえびこ)〈山田の案山子〉が知っていて 神産巣日神かみむすひのかみ)の手の股またからこぼれて落ちた御子神とわかる
神産巣日神の命令により 大国主神と小名毘古那の二柱の神は 並んで この国〈日本〉を作り堅めました
その後 小名毘古那神は 常世に渡られました と記されています

【抜粋意訳】

小名毘古那神(すくなひこなのかみの段

そこで 大国主神(おおくにぬしのかみ 出雲の御大御埼(みほのみさき)においでになつた時に 立つに 天羅摩船(あまのかがみのふね)〈ガガイモの船 or 蛇蛇の船〉に乗って (ひむし)の皮を剥いで作ったを着て 寄り来る神がいました

その名を聞きましたけれども答えません
また 者の神たちに お尋ねになられましたが 皆知りませんでした
ところが 多邇具久(たにぐくヒキガエルが言いうことには「これは 久延毘古(くえびこ案山子がきと知つているでしよう」と申しました

その久延毘古(くえびこ案山子を呼んでお尋ねになると「これは神産巣日神かみむすひのかみ)の御子(みこ)小名毘古那神(すくなひこなのかみです」と申しました

 神産巣日神かみむすひのかみ)に申し上げたところ「正〈まさ〉に わたしの子だ 子どもの中でも わたしの手の股またからこぼれて落ちた御子だ あなたは 葦原色許男命(あしはらしこおのみことと兄弟となてこの國を作り堅めなさい」と仰せられました

それで それから 大穴牟遅(おほなむち)と小名毘古那(すくなひこな)の二柱の神は 並んでこのを作り堅めました

その その 小名毘古那神(すくなひこなのかみ 常世国(とこよのくに)へと渡られました

この 小名毘古那神(すくなひこなのかみのことを申し上げた 久延毘古(くえびこ案山子というのは  山田の曽富騰(そほど山田の案山子〉といいます この神は では歩あるきませんが 天下のことをすかり知ているです

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

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『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承

神代上の条 最後の段「大己貴神少彦名命」に 少彦名命が寄った浜が 『古事記』の美保関から五十狭々の小浜(いささのおばま)に変わっていますが 手間天神と呼ばれる由来は 『古事記』の神産巣日神から変わって高皇産霊尊指の間から漏れ落ちてしまった〉と 記されています

【意訳】

 大己貴神(おほなむちのかみ)が国を平定されたとき 出雲国の五十狭々の小浜(いささのおばま)に行かれて 食事をされようとしまし

のとき 海上に にわかに人の声がしましたので 驚いて探しましたが さっぱり見えるものがありません

 しばらくして 一人の小男(おくな) 以白蘞皮爲舟(かがみの皮をもって舟につくり) 鷦鷯羽爲衣ササキの羽を衣となし 波間にゆられてやってきました

大己貴神は 即ち取り置いて の中にもてあそんでいると 跳ねてその頰をつつきました
そこで そのかたちを怪しんで遣いを出して天神(あまつかみ)に尋ねられまし

すると 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと) お聞きになられ
「私が生んだ子は 皆で千五百ある
その中の一人の子は いたずらで教えに従わない子がいた そのうちに指の間から漏れ落ちてしまった きっと彼だろう 可愛がって育てなさい」といわれた
これが即ち 少彦名命(すくなひこなのみこと)なり

(けん)を于都斯(うつし)といいます 蹈鞴(たうはい)は多多羅(たたら)といいます
幸魂は 佐枳彌多摩(さきみたま)といいます
奇魂は 倶斯美拕磨(くしみたま)といいます
鷦鷯は 娑娑岐(ささき)といいます

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

天神社〈美保神社 境外社〉(松江市美保関町) (hai)」(90度のお辞儀)

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています