国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『出雲國風土記』秋鹿郡(aika no kori)条 所載の神社の数は「26社」です
「10社」 神祇官社(jingikan sha)=『延喜式神名帳』所載社
「16社」 不在神祇官社(fuzai jingikan sha)
『出雲國風土記』秋鹿郡【不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)】16社は 写本の順番で並んでいます " Shrines are arranged in order of manuscripts "
恵曇海邊社 (えとものうみへ) (etomo no umibe no) yashiro
・恵曇神社(鹿島町恵曇)
恵曇神社(えともじんじゃ)は 磐坂日子命〈須佐能乎命(すさのをのみこと)の御子〉を祀り 『出雲國風土記 733 AD』所載の神祇官社「惠杼毛社(えとも)のやしろ」の論社です また境外社の恵曇海辺神社は『出雲國風土記』所載の不在神祇官社 二ヶ所の論社となっています
惠曇神社(鹿島町恵曇)
同海邊社 (おなじうみへ) (onajiki umibe no) yashiro
・恵曇神社(鹿島町恵曇)
恵曇神社(えともじんじゃ)は 磐坂日子命〈須佐能乎命(すさのをのみこと)の御子〉を祀り 『出雲國風土記 733 AD』所載の神祇官社「惠杼毛社(えとも)のやしろ」の論社です また境外社の恵曇海辺神社は『出雲國風土記』所載の不在神祇官社 二ヶ所の論社となっています
惠曇神社(鹿島町恵曇)
奴多之社 (ぬたし) (nutashi no) yashiro
・奴多之神社
奴多之神社(ぬたしじんじゃ)は 『出雲國風土記』所載の秋鹿郡 不在神祇官社「奴多之社(ぬたし)のやしろ」とされています 高姫命が女嵩野山に降臨なされた際 猿田彦命はみずから船の艫をとり大神をお導きになられ のち高姫命は嵩野山に 猿田彦命はこの地に鎮座されることとなり 故に この社を古人は艫取大明神と呼び崇敬していると伝わります
奴多之神社(松江市大垣町)
那牟社 (なむ) (namu no) yashiro
・草野神社
草野神社(かやぬじんじゃ)は 江戸時代までは八幡宮でした 明治元年に「草野社」(『出雲國風土記』所載)の論社とされていた「杠(yuzuriha)神社」が合祀遷座されます これを機に明治8年から「草野神社(kayanu shrine)」と呼称を改めた由緒を持ちます
草野神社(松江市上大野町)
多太社 (ただ) (tada no) yashiro
・多太神社
多太神社(ただじんじゃ)は 『出雲國風土記』所載社の秋鹿郡「多太社(ただ)のやしろ」です 御祭神は須佐能乎命(スサノオノミコト)と櫛稲田姫の五番目の御子 衝桙等乎而留比古命(ツキホコトオルヒコノミコト)・命が国を巡りこの土地を訪れ「我が心は明るく汚れのない正しい心持ちになった 我はこの土地に鎮まろう」と言われた故に「多太」郷と名がつけられたと伝わります
多太神社(松江市岡本町)
同多太社 (おなじきただ) (onajiki tada no) yashiro
・艫田神社〈多太神社の境外摂社〉
艫田神社〈多太神社の境外摂社〉(ともだじんじゃ)は 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載の秋鹿郡 不在神祇官社「同多太社(おなじきただ)のやしろ」とされています 御祭神の猿田彦命が 諸手船に乗り その御船の艫(とも)取りて この所に着いたので 故にこの地を艫田(ともた)というと伝わります
艫田神社〈多太神社の境外摂社〉(松江市岡本町)
出島社 (いでしま) (ideshima no) yashiro
・出島神社
出島神社(でじまじんじゃ)は 『出雲國風土記』所載の秋鹿郡 不在神祇官社「出島社(いでしま)のやしろ」とされます かつて釜代(かましろ)という所に鎮座しましたが 宍道湖の波浪の浸食で崩れ 現在地に遷座したと伝わります
出島神社(松江市西浜佐陀町)
阿之牟社 (あしむ) (ashimu no) yashiro
・森清神社
森清神社(もりきよじんじゃ)は『出雲國風土記』所載の秋鹿郡 不在神祇官社「阿之牟社(あしむ)のやしろ」の里宮とされます 明和4年(1767)に里宮として創建され 地区の名にちなみ呼称されるようになった 阿之牟社は 本来山一帯をご神体とする神社で 山中の中腹に本宮とされる巨岩が鎮座します
森清神社(松江市大垣町)
・奴多之神社 《参考 雲陽誌による》
奴多之神社(ぬたしじんじゃ)は 『出雲國風土記』所載の秋鹿郡 不在神祇官社「奴多之社(ぬたし)のやしろ」とされています 高姫命が女嵩野山に降臨なされた際 猿田彦命はみずから船の艫をとり大神をお導きになられ のち高姫命は嵩野山に 猿田彦命はこの地に鎮座されることとなり 故に この社を古人は艫取大明神と呼び崇敬していると伝わります
奴多之神社(松江市大垣町)
・内神社 〈森清神社と奴多之神社の所管社〉
内神社(うちじんじゃ)は 『出雲國風土記』の「宇智社」・『延喜式神名帳』の「内神社」に比定され 出雲国二大社(出雲大社・佐太神社)の支配を受けない「一社一例社」の特例を中世から継続して来た格別の神社で 江戸時代は松江藩四所祈願所(杵築、日御碕、佐陀、当社)のひとつでした 創建は霊亀元年(715)高野山の頂に光輪を見て神垣を結んだとされ 養老元年(717)今の宮地に移し宮殿を再興したと伝わる
内神社(松江市大垣町)
田仲社 (たなか) (tanaka no) yashiro
・田中社〈佐太神社の境外社〉
田中神社(佐太神社・北殿摂社)は 全国的にも珍しい“縁結び”と“縁切り”の社です 「姉妹の女神」を祀る社が 背中合わせに建っている不思議な神社です 男女の縁や悪い癖など断ち切りたい縁は切れて その後で 素晴らしい縁結びが 同時に叶います
田中神社(佐太神社・北殿摂社)
彌多仁社 (みたに) (mitani no) yashiro
・彌多仁神社
弥多仁神社(みたにじんじゃ)は 『出雲國風土記』所載の秋鹿郡 不在神祇官社「彌多仁社(みたに)のやしろ」です 古くは社地より西方200mに潮が湧き出る所があり これを汲んで神前に供える祭りが催されたが 地勢の変化で潮が止まり 地名の塩谷にその名残を留めると伝わります
彌多仁神社(松江市荘成町)
細身社 (ほそみ) (hosomi no) yashiro
・細見神社(松江市大野町)
細見神社〈細身神社〉(ほそみじんじゃ)は 『出雲國風土記』所載の秋鹿郡 不在神祇官社「細身社(ほそみ)のやしろ」とされています かつて上名(かみみょう)の牛鞍大明神(うしくらだいみょうじん)と呼ばれていました
細見神社(松江市大野町)
同下社 (しも) (onajiki shimo no) yashiro
・杉戸神社〈草野神社に合祀〉
草野神社(かやぬじんじゃ)は 江戸時代までは八幡宮でした 明治元年に「草野社」(『出雲國風土記』所載)の論社とされていた「杠(yuzuriha)神社」が合祀遷座されます これを機に明治8年から「草野神社(kayanu shrine)」と呼称を改めた由緒を持ちます
草野神社(松江市上大野町)
伊努社 (いぬ) (inu no) yashiro
・伊努神社(出雲市美野町)
伊努神社(いぬじんじゃ)は 『出雲國風土記』所載の秋鹿郡 不在神祇官社「伊努社(いぬ)のやしろ」とされ 御祭神の天甕津姫命(あめのみかつひめのみこと)は「風土記の国引き神話」に登場する八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)の御子神・赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかふすまいぬおほすみひこさわけのみこと)の后神です
伊努神社(出雲市美野町)
毛之社 (もし) (moshi no) yashiro
・〈杢屋神社に合祀〉七所神社
杢屋神社(もくやじんじゃ)は 蛭子命を祭神とし 〈杢屋神社に合祀〉七社神社は 風土記の「毛之社」とされていて 天御中主尊 外四神を祭神とし もと三笠山に鎮座し 永禄年間(1558~1570)に字 西の谷に移転し 大正元年(1912)杢屋神社に合祀されました
杢屋神社(松江市古志町)& 七社神社〈杢屋神社に合祀〉
・〈惠曇神社(佐陀本郷畑垣)に合祀〉畑垣神社
惠曇神社(えともじんじゃ)は 磐坂日子命(いわさかひこのみこと)を御祭神としています 神名の「磐坂」は「磐境(いわさか)」と同義とされ 「座王さん」と呼ばれる当社境内に鎮座する磐座を神名として象徴化したものと考えられています 『出雲國風土記 733AD』所載の「恵杼毛社 (えとも)のやしろ」「毛之社 (もし)のやしろ」の論社とされています
惠曇神社(鹿島町佐陀本郷畑垣)&畑垣神社〈惠曇神社に合祀〉
草野社 (かやぬ) (kayanu no) yashiro
・杠神社 旧鎮座地〈草野神社に合祀された杠神社(草野社)〉
杠神社(ゆずりはじんじゃ)跡地は 明治39年(1906)の神社合祀令後も 里人は以前のまま 祀り続けていました由緒ある神社です 現在は 草野神社(島根県松江市上大野町1856)に遷座していますが 現地には「鳥居」「狛犬」「石灯篭」「手水石」が残り御本殿の跡に「杠神社 跡地」と社号碑が建ち 今なお 静かにたたずみ坐ます
杠神社 跡地(松江市上大野町)
・草野神社〈杠神社を八幡宮に合祀し 草野神社と改称〉
草野神社(かやぬじんじゃ)は 江戸時代までは八幡宮でした 明治元年に「草野社」(『出雲國風土記』所載)の論社とされていた「杠(yuzuriha)神社」が合祀遷座されます これを機に明治8年から「草野神社(kayanu shrine)」と呼称を改めた由緒を持ちます
草野神社(松江市上大野町)
秋鹿社 (あきか) (akika no) yashiro
・秋鹿神社
秋鹿神社(あいかじんじゃ)& 御井神社〈秋鹿神社に合祀〉は 御祭神の秋鹿日女命(あいかひめのみこと)の名から『出雲國風土記(733年)』の秋鹿郷の名の由来とされています 所載社として「秋鹿社(あきか)のやしろ」と〈秋鹿神社に合祀〉の「御井社(みい)のやしろ」の二つの論社とされます
秋鹿神社(松江市秋鹿町)& 御井神社〈秋鹿神社に合祀〉
『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』に戻る
出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています
『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳』399社