実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

饗土橋姫神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉&宇治橋

饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)は 宇治橋の守護神〈宇治橋より惡しきものが入らざるように 橋の守護の神〉宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)を齋き祭った皇大神宮(内宮)所管社 社號゛饗土(あえど)゛は 内宮の宮域四方の境に悪しきものが入ってこないよう 防ぎお祭りする土地の意〉宇治橋対面〈西側〉鎮座します

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

饗土橋姫神社(Aedohashihime shrine

通称名(Common name)

橋姫神社(はしひめじんじゃ)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市宇治今在家町

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

宇治橋の守護神

【格  (Rules of dignity) 

〈皇大神宮(内宮)所管社〉

【創  (Beginning of history)】

『神宮要綱』〈昭和3年1928)〉に記される内容

【抜粋意訳】

饗土橋姫神社

鎭座地 宇治山田市大字今在家町

殿舎
正  殿 神明造、板葺、東面・・・壹宇
瑞垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
瑞  垣 袖繰板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替

饗土橋姫(アヘドハシヒメ)神社は 宇治橋の西傍に鎭座し、同橋の鎭守神を奉齋せり。
宇治橋の創築年代に至りては、史に之を明記せず。從って本社の創立年代も亦不明に属すと雖も、恐らくは山城なる宇治の橋姫祠に倣へるものか。氏經神事記 文明九年四月の條に大橋橋姫御前社造替のこと見えたれば、室町時代中期には、既に本社の祀られありしことを知るなり。
慶長十一年豊臣秀賴 宇治橋及び風宮橋の造替と共に、本社を造営せること慶光院文書等に見ゆ。慶長元和以降、其の殿舎の様式春日造を採りしが寶永の造替より神明造に復して現今に及べり。
本社は近世宇治會合所に於て之が造替を奉仕し、祭事は神宮に於て之を行ひ來りしが、明治五年教部省達によりて地方の無格社となり、二十二年神宮式年造替に際し神宮の所管に復し、造替及び修繕は造神宮使廳の 當する所となれり。
然るに同四十二年十二月國道路線改修の結果、社地其の中心に當るの故を以て、三重縣知事より代地ー百二十二坪八合八勺を提供し、四十二年三月二十日、現社地に移轉奉遷を行へり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

【由  (History)】

『神宮摂末社巡拝』下〈昭和18年(1943)〉に記される内容

【抜粋意訳】

饗土橋姫(あへどはしひめ)神社

 宇治の町を通って宇治橋の前に到る。橋の前の森の中に、三社、神宮の攝末社が鎭座してゐる。先づ宇治橋前の大廣場の西口、御鳥居と清楚な御社殿の拜されるのが、饗土橋姫神社で、皇大神宮の所管社である。略して普通には橋姫(はしひめ)神社と申上げてゐる。地域は宇治山田市今在家町になってゐる。
御祭神は宇治橋鎭守神(うぢばしのまもりがみ)と申上げる。宇治橋より惡しきもの入らざるやう、橋の守護の神として齋き祭つたものである。
御社名の饗土(あへど)といふことは、道饗祭(みちあへのまつり)をする神といふ意味で、皇大神宮の宮域の四力の境に於て、惡しきものの入り來らざるやうに、これを防ぎ御祭りをする所の意味である。

鎌倉時代の神宮の記錄である建久年中行事二月の條に、饗土社(あへつちのやしろ)の名が見えてゐる。室町時代の初期に、宇治橋が現在の所に架けられるや、これに橋姫(はしひめ)神を併せ祭ったものが、今日の饗土橋姫神社である。氏經(うじつね)神事記の文明九年四月の條に、「大橋之橋姫御前社」造替について、十萬度の御祓を勤仕した旨が見えてゐるので、既にこれ以前に橋姫社の出來てゐたことが知られる。

 本社の位置は、もとは宇治橋の直ぐ前で、現在宇治橋前にある大松の所が、舊社地である。明治四十二年、宇治橋前取り廣げのとき、現在の位置に後退したものである。橋姫といふ名は、山城國の宇治橋にも橋姫社があり、これも世間に名の知られてゐる所である。

【原文参照】

猿田彦神社講本部 [編]『神宮摂末社巡拝』下,猿田彦神社講本部,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033626

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

〈宇治橋前の大松〉饗土橋姫神社の旧鎮座地

もとは宇治橋の直ぐ前で 現在宇治橋前にある大松の所が旧社地であったが 明治四十二年(1909)国道(御幸道路)建設に当り宇治橋前取り広げがあり 現在の位置に後退しました

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

饗土橋姫神社は 皇大神宮(内宮)所管社です

・皇大神宮(内宮)

一緒に読む
皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉

皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖神 天照大御神゛御神体は皇位のしるし三種の神器の一つ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です

続きを見る

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

宇治橋(うじばし)との関連について

Please do not reproduce without prior permission.

宇治橋は 五十鈴川にかかる橋で 別名゛御裳濯橋(みもすそばし)゛と云われます
宇治橋の起源不明とされ
同様に 宇治橋を守護する饗土橋姫神社の創建も不明です

内宮創建当初には 架けられておらず 五十鈴川の浅瀬に石を並べ渡っていたと考えられています 雨で増水すると渡れず祭事に影響するため 架橋が望まれていました

内宮では 第40回式年遷宮は 予定より11年遅れて1462年 (寛正3年)に行なわれましたが これを最後に戦国時代には中絶され・外宮・内宮・両宮の全ての宮社が荒廃していきました

寛正5年(1464)には 大橋が完成した記録がありますが 翌年の夏に洪水で流されています
この頃には 橋が何回も流されていたため 橋祈祷を行なうことが通例となっていたようなので 宇治橋を守護する饗土橋姫神社もあったのかもしれません

文明9年(1477)の宇治橋架け替えの際に饗土橋姫神社の建て替えが行われている資料があるので 少なくともこれ以前には存在したものと考えられています

宇治橋渡始式゛について

神宮の式年遷宮では 新しい宇治橋が完成すると橋の無事を祈り 宇治橋を最初に通行する式典の宇治橋渡始式(うじばしわたりはじめしき)が行われます当初は長寿の老人が最初に渡っていましたが 文政6年(1823)の両国橋の渡初式に3代揃った夫婦が最初に渡ったことにならい 以後は3代揃った夫婦が最初に渡るようになりました

宇治橋渡始式では 東側〈内宮側〉から西側へと渡り始めます

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

おかげ横丁『暮らし のぞき箱』ー宇治橋渡始式-より

おかげ横丁『暮らし のぞき箱』ー宇治橋渡始式-より

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

内宮・外宮の摂社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

続きを見る

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

内宮をお参りをします

・皇大神宮(内宮)

一緒に読む
皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉

皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖神 天照大御神゛御神体は皇位のしるし三種の神器の一つ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です

続きを見る

宇治橋渡始式のように 東側〈内宮側〉から西側へと渡ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

宇治橋を渡った鳥居の先に゛大松゛があります

Please do not reproduce without prior permission.

〈宇治橋前の大松〉饗土橋姫神社の旧鎮座地

もとは宇治橋の直ぐ前で 現在宇治橋前にある大松の所が旧社地であったが 明治四十二年(1909)国道(御幸道路)建設に当り宇治橋前取り広げがあり 現在の位置に後退しました

Please do not reproduce without prior permission.

内宮前の信号を渡ると駐車場の奥の中央には゛旧 林崎文庫゛の史跡があります

Please do not reproduce without prior permission.

そこから見来て方向 駐車場の一番北側にあるタクシープールの奥に入り口があります

この入り口からは三方向〈正面・左・右〉に参道が伸びています

Please do not reproduce without prior permission.

入り口の正面には 宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)を祀る゛饗土橋姫神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉゛が鎮座します

・饗土橋姫神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉《主》宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ) 

一緒に読む
饗土橋姫神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉&宇治橋

饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)は 宇治橋の守護神〈宇治橋より惡しきものが入らざるように 橋の守護の神〉宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)を齋き祭った皇大神宮(内宮)所管社で 社號゛饗土(あえど)゛は 内宮の宮域四方の境に悪しきものが入ってこないよう 防ぎお祭りする土地の意〉宇治橋の対面〈西側〉鎮座します

続きを見る

 

向かって左手には゛大水神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉゛が鎮座します

・大水神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉《主》大山祗御祖命(おおやまづみのみおやのみこと)

一緒に読む
大水神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 川相神社・熊淵神社〉

大水神社(おおみずじんじゃ)は 皇大神宮(内宮)の摂社で 皇大神宮(内宮)末社の2社〈・細川水神〈川相神社(かわあいじんじゃ)・多支大刀自神〈熊淵神社(くまぶちじんじゃ)〉が御同座します 3社ともに垂仁天皇の御代 倭姫命によって御鎭祭されたと伝わります

続きを見る

向かって右手には゛津長神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉゛が鎮座します

・津長神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉《主》栖長比賣命(すながひめのみこと)

一緒に読む
津長神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 新川神社・石井神社〉

津長神社(つながじんじゃ)〉は 皇大神宮(内宮)の摂社です 鎮座地の古地名を「津長原止」と云い 倭姫命が上陸したと伝えらる 五十鈴川を遡上した船の留場〈津〉でした 水神の栖長比賣命を祀る津長神社には 皇大神宮(内宮)の末社〈新川神社〉新川比賣命・〈石井神社〉高水上命が御同座しています

続きを見る

饗土橋姫神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉に参着

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をして 鳥居をくぐり 殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

社殿は内宮に準じ内削ぎの千木と 4本で偶数の鰹木を持つ板葺屋根の神明造で東面し 宇治橋を向いています

お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

内宮の駐車場越しに宇治橋の鳥居が見えています

Please do not reproduce without prior permission.

おかげ横丁を戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神宮遷宮史 明治42年』〈明治43年(1910)〉「式年御遷宮諸祭式」に記される伝承

【抜粋意訳】

式年御遷宮諸祭式

橋姫神社の御事

宇治大橋渡始式祭場たる饗土橋姫神社は 當度御造替に係う四十二年三月二十一日午後八時を以て 卸遷座式を行はれたるが、今その由緒を承はるに、當神社は古來 新大橋渡始式祭場として式典を執り行はせらるる御例に定まりあり、明治五年数部省の示達により三重縣管轄に移され、雜社の格に入り、今在家町氏神として奉祭せしが、同十年内務省の達あり宇治橋及両岸の烏居を司廳の所管に属せられたれば、同二士二年に至り渡始式祭場の古例により、神宮所管に復舊すべく内務省に稟請せしに、同年四月十五日認可の指令あり、五月二十二日三重縣より引渡を受け、茲に全く神宮所管の神社となりしが、今在家町よりは從前の如く氏神として例祭を行ふの許可を受けて先般迄奉祭し居たり、斯くて今回の盛儀前、他の攝末社に御例しなき結構を以て益々大神の尊嚴を表現せられたるは實に畏き次第にて、御造替費の如き六百餘円を計上せられたる、蓋しし他に其の比を見さる所なりとす。

宇治橋渡始式

・・・・・
・・・・・

光榮ある渡女の一家

・・・・・
・・・・・

【原文参照】

参宮新報社 編『神宮遷宮史』明治42年,川原由松,明43.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815526

参宮新報社 編『神宮遷宮史』明治42年,川原由松,明43.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815526

参宮新報社 編『神宮遷宮史』明治42年,川原由松,明43.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815526

参宮新報社 編『神宮遷宮史』明治42年,川原由松,明43.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815526

饗土橋姫神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

続きを見る

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

続きを見る

 

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています