柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)は 天長四年(827)延暦寺の名僧・金亀和尚が宇佐神宮の参篭にて神告を蒙り 柞原山に勧請したのを 当宮の創設起源とします その後も 国司の厚い崇敬を受け 一方 皇室も厚く尊崇せられた豊後国一之宮とされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
柞原八幡宮(Yusuharahachimangu)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
大分県大分市上八幡三組
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》東御前・仲哀天皇(帯中日子命 たらしなかつひこのみこと)
中御前・応神天皇(譽田別命 ほんだわけのみこと)
西御前・神功皇后(息長帯比女命 おきながたらしひめのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・厄除・開運の神、殖産興業の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・豊後国一之宮
・別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
創 建
天長四年(827)延暦寺の名僧
・金亀和尚が宇佐神宮の参篭にて神告を蒙り、柞原山に勧請したのを、当宮の創設起源とする。
柞原八幡宮HPより
豊後一之宮(国指定 重要文化財)
柞原(ゆすはら)八幡宮 由緒略記
御祭神
仲哀天皇(帯中日子命 タラシナカツヒコノミコト)
応神天皇(譽田別命 ホンダワケノミコト)
神功皇后(息長帯比女命 オキナガタラシヒメノミコト)主な祭典
例大祭(三月十五日)
夏越祭(七月三十一日)
浜之市(九月十四日~二十日)当宮は、平安時代の天長4年(827)に宇佐神宮より御分霊を勧請し、承和3年(836)国司により、社殿を造営。爾来、皇室も厚く尊祟せられた。
嘉承(1,108)には、勅使の参向があり、敷地の四至を定め税を免ぜられた。仁平3年(1,153)には、鳥羽法皇が60歳の御賀に御祈願を修せられ、神領を定められた。
元暦元年(1,184)には、源範頼が平氏の追討を祈願したのをはじめ、源頼朝、領主(大友、竹中、日根野)、武家の崇敬も非常に厚く 近世には、社家二百余、坊舎三十を数えた。御本殿は、嘉永3年(1,850)に再建された壮麗な八幡造り。参道途中に建つ南大門は、「日暮門(ひぐらしもん)」と称し、壁面には二十四孝等の彫刻が施され、門の横には樹齢三千年の天然記念物の大楠が聳えている。
宝物館には、太刀、甲冑、金銅仏等重文六点他を所蔵。現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
社号 柞原八幡宮(ユスハラハチマングウ)
大正5年(1916)、国幣小社に昇格。創建
天長4年(827)、延暦寺の名僧・金亀和尚が宇佐神宮の参篭にて神告を蒙り柞原山に勧請したのを、当宮の創建の起原とする。御祭神
東御前・仲哀天皇「帯中日子命(タラシナカツヒコノミコト)」
中御前・応神天皇「誉田別命(ホンダワケノミコト)」
西御前・神功皇后「息長帯比女命(オキナガタラシヒメノミコト)応神天皇 仲哀天皇の皇子、神功皇后が御母。天皇は深く国内外の政治に大御心を用いられ、又、文学にも力をそそがれ、大船を造られ交通の道を開かれ、国内は勿論韓土との交通も頻繁となる。
故に「厄除・開運の神、殖産興業の守護神」として崇められている。
神功皇后 御幼時より聡明且つ容姿壮麗であられた。仲哀天皇の二年に皇后となられた。内助の功多く、天皇の没後、男装して海を渡られ新羅を征服す。
爾来、応神天皇を奉じ政をとり給う事70年、御年百歳にて崩じられた。
仲哀天皇 熊襲の反乱を御親征の為、船を率いて海路筑紫に幸し、これを討たれたが、陣中にて崩じ給うた。皇室の御崇敬 当宮は承和3年(836)、右大臣・清原夏野は勅を奉じて国司大江宇久に社殿を造営せしめ、爾来、国司の厚い崇敬を受け、一方、皇室も厚く尊崇せられた。
又、嘉承3年(1108)には、勅使の参向があり、敷地の四至を定め税を免ぜられた。
仁平3年(1153)には、鳥羽法皇が60歳の御賀に御祈願を修せられ、神領を定められた。
元暦元年(1184)には、源範頼が平氏の追討を祈願したのをはじめ、源頼朝・領守(大友・竹中・日根野)・武家の崇敬も非常に厚く、近世には、社家200余・坊舎30を数えた。社殿
御本殿は安政年間(1854~1860)に再建の壮麗な八幡造りであり、申殿・拝殿・楼門・廻廊が続く。本殿の東西には東宝殿・西宝殿が建ち、東宝殿の東には権殿が建つ。本殿の南には宝物殿が建ち、多くの宝物が収められている。又、参道の途中には南大門がた値が建つ。これは別名「日暮し門」と呼ばれる華麗なもので軒の正面には雄竜・雌竜(裏面)が、そして随所に多彩な彫刻が施され、元和9年(1623)の再建・明治3年(1870)、修営になる。祭典
歳旦祭(1月1日)・元始祭(1月3日)・成人祭(1月15日)・紀元祭(2月11日)・祈年祭(2月17日)・例大祭(3月15日)・大祓(6月30日)・夏越祭(7月31日)・武内大神渡御祭(9月1日~7日)・仲秋祭(9月14十~20日)・新嘗祭(11月23日)・七五三祭(11月中)・天長祭(12月23日)・大祓(12月31日)・除夜祭(12月31日)・月次祭(毎月1日)社宝
国指定重要文化財 太刀(国宗・源国・薙刀直し刀)・銅造仏像(白鳳時代)・甲冑(白檀塗浅葱糸威腹巻)・柞原八幡宮文書(絵図付)県指定重要文化財 八幡宇佐宮御託宣集(裏図付)・木造不動明王立像(鎌倉時代)・木造女神坐像(平安中期)・木造祖師坐像(平安中期)・山水蒔絵縁起絵巻納箱・紙本着色由原八幡宮縁起絵巻(附極書二通)・紺紙金泥増壱阿含経(十一紙)・板堀不動明王立像・板堀多聞天立像・木造菩薩形坐像特殊神事
武内大神渡御祭 9月1日~7日の間、申殿西内に祀る武内大神(武内宿禰)が、その本社・賀来神社まで御神幸になられる。別名「賀来の市」と称され、9月1日と9月7日に神事が斎行される。
仲秋祭
9月14日~20日の間。別名「浜の市」と称され、14日に氏子の奏する渡り拍子の中を、神輿三基が御旅所の仮宮に渡御する。中日には、放生会の神事・花火大会があり、期間中、神前では神楽等が奉納され、盛大な「市」が立ち終日賑わう。起源は、大友能直が豊後国守護となった鎌倉時代初期に始まり、大友氏滅亡後一時中絶したが、寛永13年(1636)、府内藩主・日根野吉明が再興し、現在に至っている。名物
「しきし餅・一文人形」が有名。
天然記念物
大楠(樹齢3000年以上)は境内参道西側(南大門の西側)にそびえ、樹高30メートル・根回り34メートル・地上2メートルの幹回り19メートルもあり幹の下部は空洞になっており大人が10数人も入ることが出来る。我が国でも有数の巨木であり、大正11年3月に国の指定を受ける。平成元年、環境庁巨木調にて全国第七位となる。境内
約17000平方メートルあり、境内参道途中には、大友氏の時代にポルトガル人が寄せたと伝えられる「ホルトノ木(根回り6.5メートル)」が大枝を広げている。又、御殿廻廊よりの「新緑・紅葉等」は見事である。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・八王子社《主》八柱の御子神〈天照大神と素戔嗚尊の誓約〉
・天神社《主》菅原道真公
・双葉山稲荷社《主》伏見稲荷大社の御分霊
・馬場頭社《主》香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)
・武内社《主》武内宿禰
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・賀来神社 (大分市)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
柞原八幡宮は 宇佐神宮(うさじんぐう)の分祀(ぶんし)を受けた別宮(べつぐう)
柞原八幡宮の創建は「天長4年(827)延暦寺の名僧・金亀和尚(こんきおしょう)が 宇佐神宮に千日間参篭(さんろう)にて神告を蒙り柞原山に勧請したのを、当宮の創建の起原とする」
・宇佐神宮(宇佐市南宇佐)
宇佐神宮(うさじんぐう)は 全国4万社余りの八幡社の総本宮です 豊前国一之宮でもあります 神亀2年(725)創建以来 皇室から「伊勢神宮」につぐ「第二の宗廟(sobyo)」としての崇敬を受けています 信仰の地となってから約1300年 境内に足を踏み入れれば 日本の息吹が伝わります
宇佐神宮(宇佐市南宇佐)
豊後国の柞原八幡宮は 豊前国一之宮 宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の分祀として 宇佐八幡宮の別宮の一つと扱われて崇敬を受けました
長徳4年(998年)からは 宇佐八幡宮と同様に33年ごとの社殿の造営(式年遷宮)が行われるようになりました
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
豊後国(ぶんごのくに)の一之宮を巡る 西寒多神社との論争
豊後国の一之宮は 当初は延喜式内大社の「西寒多神社(ささむたじんじゃ)」でした
その後 宇佐八幡宮から分祀され別宮となった「柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)」は 豊後国府に近くにあって 歴代の領主の崇敬を受けて勢力を増し 中世以降に 一之宮を称し始めました
①「西寒多神社(ささむたじんじゃ)」
➁「柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)」それぞれの論社をご紹介します
この2社間で互いに 当代の豊後国 一之宮を主張する 論争が 近世までありました
別の理由としては
西寒多神社は『延喜式神名帳927 AD.』に豊後国 大分〈大野〉郡 西寒多神社 と記載され 豊後国 唯一の大社に列し 豊後国一之宮として崇敬されていた
平安時代後期以降衰退し 西寒多神社は中世に廃絶した あるいは大きく衰えていたらしい
『橘三喜 諸国一宮巡詣記』(1675年~1697年)にも次のような記載
「由原山(ゆすはらさん)〈柞原八幡宮〉へまかりて、西寒多の社〈西寒多神社〉を尋ねけれども、社人社僧いづれも知らざるよしを告げぬ 」
つまり 橘三喜が巡歴した江戸時代前期には由原山〈柞原八幡宮〉で 西寒多神社の所在をたずねても 社僧は誰も知らず 西寒多神社は所在すら不明になっていたと伝えています
また
『豊後国志(ぶんごこくし)』〈享和3年(1803)〉には 大野郡寒田神社を西寒多神社とし 応永十五年(1408)大友親世が大分郡植田に移し寒田と名づけた。とあり、今(1803)は一茅宇になつてゐる」とあります
このため 平安時代~中世までは西寒多神社が栄え やがて西寒多神社は衰えて 中世以降~江戸時代までは 柞原八幡宮は栄えていた 中世には実質的に 柞原八幡宮が一之宮として機能していたのだとも云われます
①「西寒多神社(ささむたじんじゃ)」
➁「柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)」それぞれの論社をご紹介します
①式内社「豊後國 大分郡 西寒多神社(延・大)」 の論社
・西寒多神社(大分市寒田)
西寒多神社(ささむたじんじゃ)は 社伝によれば 第15代 応神天皇の勅命により 応神天皇9年(278)4月 西寒多山(本宮山)に 祠を建立したと伝わり その後 応永15年(1408)3月 南北朝~室町時代に守護大名 大友親世公により現在地に遷座されました 豊後国一之宮として信仰されています
西寒多神社(大分市寒田)
・本宮神社(大分市上判田)〈西寒多神社 奥宮〉
・西寒田神社(臼杵市野津町西寒田)
西寒田神社(ささむたじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社「豊後国大分郡 西寒多神社」の論社です・『豊後国志』・『太宰管内志』では こちらが本祠であって 応永15年(1408)3月に大友親世が現在地〈西寒多神社(大分市寒田)〉に遷座したと伝えています
西寒田神社(臼杵市野津町西寒田)
・西寒多神社(豊後大野市犬飼町西寒田)
西寒多神社(ささむたじんじゃ)は 社伝によれば『延喜式神名帳927 AD.』所載の豊後國 大野郡一座大 西寒多神社であり 文化九年(一八一二) 白川神紙伯の「鎮國一宮 西寒田神社」の社号をうけていると伝えています 式内社の論社でもあり 豊後国一之宮の論社でもあります
西寒多神社(豊後大野市犬飼町)
➁柞原八幡宮
・柞原八幡宮(大分市)
柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)は 天長四年(827)延暦寺の名僧・金亀和尚が宇佐神宮の参篭にて神告を蒙り 柞原山に勧請したのを 当宮の創設起源とします その後も 国司の厚い崇敬を受け 一方 皇室も厚く尊崇せられた豊後国一之宮とされます
柞原八幡宮(大分市上八幡三組)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR西大分駅から国道10号から県道696号を西へ 約4.5km 車約10分程度
国道10号沿いに 柞原八幡宮仮宮(お旅所)があり 県道696号を左折して JRの線路をくぐると 大鳥居が建ちます
大分市街地西方 二葉山(八幡柞原山とも)山麓の参道を進みます
柞原八幡宮(大分市上八幡三組)に参着
参道石段の下に 境内の案内図があります
道は狭いですが 車では 宝物殿の横の駐車場まで進めます
楼門のすぐ脇から上がります
一礼をして 楼門の内には 左手にすぐ 西門と社務所 授与所があります
楼門の左右には東回廊・西回廊が接する 楼門の奥には・拝殿・申殿
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 申殿 本殿 その向かって左に 西宝殿
本殿は 切妻造社殿2棟を前後に連結したような特異な形式
廻廊内には 絵馬がかかります
拝殿を横から見ます
再度 本殿に一礼をします
帰路は 石段参道を戻ります
大クス
双葉山稲荷社への参道があります
南大門が建ちます
参道を下ります
参道下から 振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式外神の部に
豊後国の一之宮は 西寒多神社である と記されています
【抜粋意訳】
豊後國 式外部
柞原八幡宮
祭神 筥崎宮同體 一宮記、頭注
〇大分郡由原村に在す、社家注進 例祭八月十五日、
〇八幡本紀付録に、この国の一宮なり、
社説に云傳ふるは、淳和天皇 天長四年 宇佐より影向し給ふとかや、御社は丗三年に一度造営す、大社にして宮殿みやびやかなり、御社は南に向うて立てり 大宮司は賀来氏なり、社人凡百餘家、社僧十四坊ありといへり、連胤
按るに、当社は古今国内の大社なる事は、皆人の知る所なり、さては一宮といひ、式内 西寒多神社たるよし諸書に載たり、されど大隅国 国分八幡宮は鹿児島神社、對馬国 木坂八幡宮は和多都美神社といふとは同列にあらず、
その故は 西寒多神社には、貞観十一年従五位下を授けたり、寶に八幡宮ならば、いかで五位の爵は授けらるべき、先哲ここを辨へず、一宮 西寒多神社なりと云る、何をにせるか詳ならず、依て今 式外の旧社として、ここ處に挙げて後勘をまつもの也祭祀 ・・・・・・
神領 豊後国圓田帳云、弘安八年十月十六日 山原宮御神領二百四十六町
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
神社覈録の説を引用して 豊後国の一之宮は 西寒多神社である と記されています
【抜粋意訳】
大分縣豊後國大分郡八幡村大字八幡
縣社 柞原八幡社
祭神
仲哀天皇(チュウアイテンノウ)
應神天皇(オウジンテンノウ)
神功皇后(ジングウコウゴウ)淳和天皇天長四年十月.延暦寺僧金亀和尚の創建なり、即ち豊後國志に
「在ニ賀来郷由原山中、社記有ニ神教之験、延暦寺僧金亀和尚尚建祠、国司 大江朝臣守久以奏之、因得預ニ官社、・・・・・」と見え又 豊后史蹟考に
「柞原八幡神社.賀来郷由原山中に在り、明治三年縣社に列せらる。祭神は仲哀天皇、應神天皇、神功皇后の三神霊なり、・・・・・」又、大宰管内志諸社根元抄中巻に、
「豊后國 柞原宮とあり、柞原は由之渡良と訓べし、御名は地名に依りてたたヘたるなり、豊后國 柞原神社 祭神三座 神功皇后、應神天皇、武内大臣、
また豊鐘善鳴録に金亀和州人也云々・・・・・・」とあり、神社覈録 式外神の部に掲げたる説も 亦略貝原翁の所説の如くにして、尚
「連胤
按るに、当社は古今国内の大社なる事は、皆人の知る所なり、さては一宮といひ、式内 西寒多神社たるよし諸書に載たり、されど大隅国 国分八幡宮は鹿児島神社、對馬国 木坂八幡宮は和多都美神社といふとは同列にあらず・・・・」とあり、・・・・明治六年 縣社に列す。
・・・・
【原文参照】
柞原八幡宮(大分市上八幡三組)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について