式内社 努能太比賣命神社 社跡(しきないしゃ ぬのたひめのみことじんじゃ やしろあと)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 努能太比賣命神社(ぬのたひめのみことの かみのやしろ)の社跡とされます 明治40年(1907)大依羅神社に合祀されました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
式内社 努能太比賣命神社 社跡(Former seat of Nunotahime-no-mikoto-Shrine,Engi-shiki-nai-sha)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
大阪府大阪市住吉区杉本2丁目17-2
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》努能太比賣命 ??〈どのような神なのかは定かでない〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
『延喜式神名帳927 AD.』所載社の旧鎮座地ですので それ以前の創建
【由 緒 (History)】
式内社 努能太比賣命神社 社跡は 明治40年(1907)大依羅神社に合祀されました
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈努能太比賣命神社 社跡は 明治40年(1907)大依羅神社に合祀されました〉
・〈合祀先〉大依羅神社(大阪市住吉区庭井)
大依羅神社(おおよさみじんじゃ)は 神功皇后が新羅征討の際 住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の神託により戦勝と航海の無事を祈り「依羅吾彦男垂見(よさみのあびこをたるみ)」が住吉三神を祭る祭主を務めたことが『日本書紀』に記載されるのが起源とされている 式内社 大依羅神社 四座(おほよさみの かみのやしろ しくら)(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)に比定される古社です
大依羅神社(大阪市住吉区庭井)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)住吉郡 22座(大10座・小12座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 努能太比賣命神社
[ふ り が な ](ぬのたひめのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nutahime no mikoto no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 努能太比賣命神社(ぬのたひめのみことの かみのやしろ)の論社について
・〈旧鎮座地〉式内 努能太比賣命神社 社跡(大阪市住吉区杉本)
式内社 努能太比賣命神社 社跡(しきないしゃ ぬのたひめのみことじんじゃ やしろあと)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 努能太比賣命神社(ぬのたひめのみことの かみのやしろ)の社跡とされます 明治40年(1907)大依羅神社に合祀されました
式内社 努能太比賣命神社 社跡(大阪市住吉区杉本)
・〈合祀先〉大依羅神社(大阪市住吉区庭井)
大依羅神社(おおよさみじんじゃ)は 神功皇后が新羅征討の際 住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の神託により戦勝と航海の無事を祈り「依羅吾彦男垂見(よさみのあびこをたるみ)」が住吉三神を祭る祭主を務めたことが『日本書紀』に記載されるのが起源とされている 式内社 大依羅神社 四座(おほよさみの かみのやしろ しくら)(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)に比定される古社です
大依羅神社(大阪市住吉区庭井)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR杉本駅から北東へ約500m 徒歩7分程度 杉本町会館の敷地内にあります
杉本町会館に到着しました
門扉は締まっていて 関係者以外の出入りは出来ないようです
横にある車の出入りゲートは低くて 中が見渡せます
かつての御神木でしょうか 建物の奥には大きな木があります
ゲートの脇に石碑が見えました
式内社 努能太比賣命神社 社跡(大阪市住吉区杉本)に参着
これ以上は 石碑には近づけません
ズームアップして 石碑を見ます
肉眼ではハッキリと文字が認識できないので 門扉の間から覗くと 石碑には「式内社 努能太比売命神社 村社 八坂神社 社址」と刻されています
八坂神社とは おそらくですが
廃絶していた式内社 努能太比売命神社を合祀していた 村中氏神社でしょう
〈注進状廃絶の部に杉本ノ村耕地内 奴能太(ヌノタ)と唱ふる所に凡十五坪餘の塚あり 古来神社ありしが何の頃よりか大破に及びたるを以て村中氏神社へ移さるとあり『特選神名牒』〉
お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社号石碑の横に 大きな石碑がありますが 草書体で彫られていて 離れていていることもあって 判読不能 明治の文字が見えましたので 明治年間の物とおもわれます
社号石碑と大きな石碑の間にある石柱は 道標に見えます
住吉十八丁・・・と刻れています
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 努能太比売命神社については 現 大依羅神社(大阪市住吉区庭井)〉に合祀前の旧鎮座地について記しています
【抜粋意訳】
努能太比売命神社
努能太は假字也
〇祭神明か也
○杉本村野々太池側に在す、(摂津志)連胤云、鄙民は布(ヌノ)を野々(ノノ)といへば、此池をも野々太といふも、かの俚諺の移れるなるべし、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 努能太比売命神社については 現 大依羅神社(大阪市住吉区庭井)〉に合祀前の旧鎮座地について記していますが 既に廃絶しているとも記されています
【抜粋意訳】
努能太比賣命(ヌノタヒメノミコトノ)神社
祭神 努能太比賣命
祭日
社格
所在 杉本村 字奴龍太(廃絶せしならん 明細帳になし 杉本村には八坂神社一社あるのみ)今按〈今考えるに〉
摂津志杉本村 野太(ヌノタ)池ノ側とみえ 注進状廃絶の部に杉本ノ村耕地内 奴能太(ヌノタ)と唱ふる所に凡十五坪餘の塚あり 古来神社ありしが何の頃よりか大破に及びたるを以て村中氏神社へ移さるとあり 又 奴能太塚の地図をみるに塚の四邊の田地を野々田と云ふ由記せれば此地 努能太比賣命神社なること著し
【原文参照】
式内社 努能太比賣命神社 社跡(大阪市住吉区杉本)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
摂津国 式内社 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)について に戻る
攝津國(せっつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 摂津国の 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)の神社のことです
摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)