天目一神社(あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ)は 天正八年(1580)兵火にあい記録類を失い 江戸時代には社地も不明となりました 明治維新の後 当時 惣堂天王社のあったこの地を式内社 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の跡地と定め 鎮守である平野神社も合祀され 大正12年(1923)復興されたものです
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
・天目一神社(Ameno mahitotsu shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県西脇市大木町648
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天目一箇命(あめのまひとつのかみ)
《配》大雀命(おほさざきのみこと)
日本武命(やまとたけるのみこと)
天穂日命(あめのほひのみこと)
大年神(おほとしのかみ)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由 緒
創立年不詳。延喜式の制小社に列し、天正8年(1580)、別所氏の兵火にあい、記録類失う。
明治30年(1897)、村社に列せられる。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6312005.html
式内 天目一神社
鎮守 平野神社大正時代復興の式内社(しきないしゃ)
天目一神社は、延長五年(九二七)に編纂された『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』にその名が見られる”式内社”。奈良時代(七一〇~七九四)初期に編まれた『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』の託賀郡(たかぐん)の条に御祭神の天目一箇命(あめのまひとつのみこと)が登場することから、極めて古い時期に成立した神社と考えられています。
そのような古社も、天正八年(一五八〇)に三木城主別所氏の兵火(一説に平家の時代とも)によって記録は失われ(『神社誌』)、やがてお社がどこにあったのか知る人はいなくなってしまいました。それでも多可郡内の各所に天目一箇命を祀る神社があり、天目一箇命にまつわる伝承が伝えられています。
明治時代、再び式内社への関心が高まると、飾磨県(しかまけん)による神社調査が行われ、著名な学者や歴史家が「式内天目一神社は今、大木村に在り」と推定します(『神祇志料』(じんぎしりょう)、『播磨國式内神社考』、『大日本地名辞書』等)。様々に論争が交わされましたが、当時の多可神職会も大木説を支持するに至り、復興の機運が一気に高まったのです。
再建地となったのは、古代建築の礎石が残り古くから神聖視されていた惣堂天王社の杜(そうどうてんのうしゃのもり)。ここには天目一社の小さな祠があったようで、明治末期から大正の初めにかけて村内の明神社、大年神社、若宮神社、さらに平野神社が合祀されます(『神社誌』)。そして大正十二年(一九二三)、新たな社殿が完成し復興されたのが現在の天目一神社です。
地名になった鎮守さん(ちんじゅさん)
平野神社は、大木、前島、市原、野中の鎮守です。これら四町を含む十二町からなる地区を「日野(ひの)」といいますが、この地名は明治時代に地域の鎮守「春日神社」と「平野神社」から一字ずつとって命名されたものです。また、平野神社は旧鎮座地である平野山の由来にもなっています。
創祀は不詳ですが、現存する「平野大明神」の神額に「明暦」(明暦年間一六五五~五八)の裏書きがあるほか、さらに古い鎌倉時代の大般若経を所蔵していたことも判っています。また、当地を含む、かつて「下郷(資母郷)しもごう」と呼ばれた一帯は、長禄二年(一四五八)の文書によると京都平野神社の荘園でした(『平野社領諸國所々目録案』)。これらのことから、京都平野神社と荘園時代(鎌倉もしくはそれ以前)に成立した可能性が考えられています。
境内マップ制作 平成三十一年(2019)西脇市観光協会
参道の案内版より
【由 緒 (History)】
日野の歴史と天目一神社
日野地区は、加古川の支流杉原川が作った沖積平野と段丘状に拓けた地域です。この地に人々が生活しはじめたのは古く、縄文時代後期(約四千年前)の土器が発見されています。弥生時代(約二千三百年前)になって稲作が伝わると、さらに開拓は進み、多くの集落跡が見つかっています。
奈良時代(八世紀)には、託賀郡都麻里に含まれましたが、平安時代の中頃(一〇世紀)には、杉原川東岸地域は資母郷、西岸地域は那珂郷と呼ばれるようになりました。このころの開拓の様子を示す、条理という一辺一〇九mの正方形の土地区画の跡が、道路や水路に残されています。
平安時代後期から室町時代(一二~一四世紀)にかけては、東岸地域は這田荘、西岸地域は安田荘という荘園に含まれていたらしいのですが、戦国時代(一五~一六世紀)には富田荘という一つの荘園になり、それぞれ富田郷、野中郷と呼ばれ、野間城(八千代町)に本拠をおく在田氏の支配かにありました。
その後、豊臣氏の蔵入地を経て江戸時代には各村ごとに分割支配が行われましたが、大木、野中、市原、前島などの村々は姫路藩領、幕府領、古河藩領と移り変わりました。
明治時代になって廃藩置県が行われ、明治九年にほぼ、現在の兵庫県になりました。日野という地名は、明治二二年の町村制の施行により一〇カ村が合併した時に、鎮守の春日神社の日と平野神社の野をとって日野と名づけたものです。
大木町に鎮座する天目一神社の祭神は天目一命で天久斯比止都命ともいいます。
神話によれば、天照大神が弟の素盞男命の乱暴に怒って天岩戸に隠れた時、岩戸を開くための祭りに使用する刃物や鉄鈴を作ったのが天目一命でした。それ以来、鍛冶の神、ふいごの神として崇拝されるようになったといわれています。
また、天目一命は、奈良時代の『播磨国風土記』の託賀郡の条にも登場し、多珂地方の地が古代から鍛冶に関する高度な技術をもっていたことも考えられるのです。
そして、平安時代の九二七年にできた『延喜式』という書物には「延喜式内社」と呼ぶ、全国で重要とされた神社が記載されていますが、その中の多可六座のひとつにこの天目一神社が含まれているのです。
明治維新の神仏分離令により、多可郡内でも延喜式内社への関心が高まり、特に所在地が不明であった天目一神社については、多可郡内の数カ村の神社が名のりを上げました。
ところが、著名な学者が式内社天目一神社の所在地を大木町に推定し、当時の多可神職会もこの説を支持するに至り、地元大木町でも当時惣堂天王社のあったこの地を式内社天目一神社の跡地と定めて、その復興を計画したのです。社殿は地元をはじめ、播州や泉州の金物業者の援助を得て大正八年に着工、大正一二年に竣工し、鎮守である平野神社も平野山東山麓から移して合祀しました。
竣工した本殿は、神明造と呼ばれる特殊な形式を採用し、しかも近年では例を見ないほど大きく立派なものです。また、鳥居も本殿にあわせて神明鳥居が作られています。
竣工以来、天目一神社は復興された式内社として有名になり、近在の鍛冶職人、金属加工職人たちの信仰を集めました。(旧暦)一一月八日(現在は一二月第一日曜日)に行われる「ふいご祭り」には播磨をはじめ遠く丹波、但馬、美作、和泉からも参詣者があり、強風が吹くほど、ふいごの風が強くなると喜ばれました。
戦後は金属工業などの機械化により、参詣者は減りましたが、現在でも熱心な信者と地元大木町の努力によって、盛大にふいご祭りが行われています。平成六年(一九九四年)十月吉日 奉納有志一同
拝殿に掲げられた案内板
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・社殿〈幣殿〉
・拝殿
・〈境内社〉大年神社・天満神社・竈神社・皇大神宮社
※どの祠が どの神社かはわかりません
・社頭の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・城山神社・〈境内社〉若宮神社
神社の北側(本殿の裏側から見る〈大木城跡〉城山〈平野山〉の山頂)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
天一神社の鎮座地 東徳久(ひがしとくさ)では 平成4年~平成8年にかけて 東徳久遺跡の発掘調査があり 古代製鉄遺跡(炭窯跡)が発見されました 製鉄操業が盛んな地であったことが裏付けられています
明治20年(1887)頃には 北に隣接する平松地区で弥生時代の銅剣が出土して 兵庫県指定文化財となっています 一説に天一神社の御神体とも云い 天一神社の宝剣とされています
讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉の条には 蛇行剣(蛇のようにうねった刃をもつ剣)の出土が 記されていますので 関係性はあると想います
【抜粋意訳】
讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉
昔 近江天皇の御世〈天智天皇 在位668~672年〉
丸部(わにべの)具(そなう)という者が 仲川里にいた この人は 河内国の免寸(とのき)の村人が持っていた劔を買い取った
劔を得て以後 家はこぞって滅び亡くなってしまったそれから後 苫編部(とまみべ)の犬猪(いぬゐ)が かの地の墟〈滅んだ家の跡地〉に圃(はたつくり)〈畑を作り〉をすると 土の中に この劔を得た
土を取り去ると 劔は 廻り一尺(約30cm)ばかり その柄(え)は 朽ち失せていたが その刃は渋(さ)びず 光明は鏡の如くであった
ここに犬猪(いぬゐ)は 怪しんで劔を取り家に帰った すぐに鍛人(かぬち)〈鍛冶〉を招き その刃を焼かせた
その時 この劔は 蛇の如く 伸び縮みして 鍛人は 大いに驚き つくらずに止めてしまった
そこで 犬猪(いぬゐ)は 異劔(あやしきつるぎ)であると 朝廷に献上されたその後 浄御原朝廷(天武天皇の御世)
甲申の年〈天武12年(684)〉七月 曽禰連麿(そねのむらじまろ)を遣わせて 本處〈元の所〉に還し送られた 今は この里の御宅に安置されている
【原文参照】
託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)の条には 天目一命(あまのまひとつのみこと)〈(火を見て片目となる)一つ目の神で 鍛冶の神〉の記載があり やはり製鉄に関する神についての記述だと想われます
゛後に その田は荒れてしまったので 故に荒田村と名付けた゛とある文については
現実的な考証をすると 古代 砂鉄の採集としての鉄穴(かんな)流し タタラ製鉄の際の木材の伐採などによる 流域に大量の土砂が堆積して 田が荒れて 荒田(あらた)か?
【抜粋意訳】
託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)
大海山(おおうみやま)荒田村(あらたむら)
賀眉(かみ)は 川上〈加古川の川上〉にあったので名付けられた 大海と名付けられた所以は 昔 明石郡の大海里の人が到り来て この山の麓に居住した 故に大海山と云う 此処には松が生えている
荒田と名付けられた所以は この處(ところ)に在す神 道主日女命(みちぬしひめのみこと)父(夫)なくして み児を生みましき
その時 盟酒(うけひざけ)を醸(かも)し 田を七町作ると 七日七夜の間に稲が成熟し その米で酒を醸(かも)し 諸神を集めて振る舞うと その御子に養う神〈父神〉に酒を注ぐように命ずると その子は 天目一命(あまのまひとつのみこと)に酒を奉りましたので その父だと知ることとなりました
後に その田は荒れてしまった 故に荒田村と名付けられました
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多可郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天目一神社
[ふ り が な ](あまめのひとつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amame no hitotsu no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鍛冶の神 鞴(ふいご)の祖神 天目一箇命を祀る古社 天目一神社
天目一神社では 大正12年に竣工以来 近在の鍛冶職人や金属加工職人達の信仰を集め 毎年12月の第一日曜日には 鞴(ふいご)を清めてお祭りする「ふいご祭」が行われています
鞴(ふいご)は 鍛冶〈製鉄の際〉の送風器具です
鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛について
天目一箇神は 鍛冶の神とされ
『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶であった゛天津麻羅(あまつまら)゛と同神ともされ 別名も多く 天目一命(あまのひとつめのみこと)とも呼ばれます
神名の゛目一箇(まひとつ)゛とは 鍛冶師は 製鉄の時 片目をつぶり 鉄の色を見て温度を見た事によるとも 鍛冶の職業病として 鉄を打つ火の粉によって片目を失明する゛一つ目(片目)゛の意味であろうとされます
式内社 天目一箇神社(あめのまひとつのかみやしろ)の論社が 多くある「多可町」には ゛鍛冶屋(かじや)と云う 地名があるのも頷けます゛
゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を祀る 播磨國の式内社について
播磨国は 古くから製鉄や鍛冶が行われていたと伝わり 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を信仰する製鉄・鍛冶の拠点に祀られたと考えられます
①播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)
・天一神社(佐用町東徳久)
天一神社(てんいちじんじゃ)は 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神に從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式』播磨國 佐用郡 天一神玉神社(あめひとつかんだまの かみのやしろ)です
天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉
②播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社
式内社 天目一神社は 江戸時代には所在不明となっていました
所在地が不明であった天目一神社について 明治以降に多可郡内の数カ村の神社が名のりを上げました
・天目一神社(西脇市大木町)
天目一神社(あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ)は 天正八年(1580)兵火にあい記録類を失い 江戸時代には社地も不明でした 明治維新の後 当時 惣堂天王社のあったこの地を式内社 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の跡地と定め 鎮守である平野神社も合祀され 大正12年(1923)復興されたものです
天目一神社・平野神社(西脇市大木町)〈天目一箇命を祀る古社〉
・青玉神社(多可町加美区鳥羽)
青玉神社(あおたまじんじゃ)は 伝承では 祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命で 初め三国岳の山頂に祀られていた ある時 鳥羽(とりま)の村人が三国山に狩りに行くと 急に背中が重くなり不思議に思いながら下山した 村はずれで急に背中が軽くなり「背中に乗った神様が降りられた」として社を建てたのが現在の社地と云う
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)〈祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命〉
・稲荷神社(多可町中区糀屋)
糀屋稲荷神社(こうじやいなりじんじゃ)は 創建は推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座 天平時代 称徳天皇の崇敬厚く 慶雲3年(706)社殿の建立となり勅使を使わせられ 神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられます 延喜式内社 播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社です
播州糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)〈創建は推古2年(594)〉
・天目一神社(多可町中区間子)
〈加都良神社 境内社〉
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)は 式内社 加都良神社の境内摂社として祀られています 天目一命は 多可町内では他に 青玉神社(山寄上やまよりかみ) ・青玉神社(鳥羽とりま)・西宮神社(清水きよみず)で主祭神として 大歳金比羅神社(鍛冶屋かじや)・加都良神社(間子まこ)では 摂社として祀られています
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)〈加都良神社の境内摂社〉
・荒田神社(多可町加美区的場)・天目一神社(的場 御田上)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉
〈参考論社〉
・大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)は 往古は 鍛冶の神 天目一命(あまのまひとつのかみ)を奉祀したと推測され 現在も本殿相殿・境内摂社に天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が祀られています 明治44年(1911)在来の大歳神社に〈摂社〉金刀比羅神社〈寛政6年(1794)讃岐琴平宮より勧請〉を合祀し 現社号に改称
大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
③播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)
『新撰姓氏録』に〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔として「菅田首」があり 「菅田氏」が祖神を祀った神社とされています
・菅田神社(小野市菅田町)
菅田神社(すがたじんじゃ)は 鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔とされる「菅田(すがたの)首(おびと)」が祀った神社と云われ 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり当社にも住吉神が祀られていきました
菅田神社(小野市菅田町)〈鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命を祀る〉
・住吉神社(小野市中番町)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 「菅田首(すがたのおびと)」が祀ったとされる 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)が分祀し 保安年間(1120~1123)今の地へ遷座したものとされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり 住吉大社の神領として 住吉三神を配祀し 住吉神社と改称されています
住吉神社(小野市中番町)〈延喜式内社 菅田神社(すかたの かみのやしろ)〉
・山王神社(加東市厚利)
山王神社(さんのうじんじゃ)は 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社である・菅田神社(小野市菅田町)・住吉神社(小野市中番町)は 東條川を挟んで その南北の岸に祀られています 同じく論社とされる当社は そこから東條川を上流に向かって4km程遡った辺りの北岸に鎮座しています
山王神社(加東市厚利)〈延喜式内社 菅田神社の論社〉
・八坂神社(小野市中番町)
八坂神社(小野市中番町)は 当地方に゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族〈砂鉄を採集して武器 農具を作成〉が祀った延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされ やがて農業に転換した里人は 農地に適した現在地〈その後 住吉大社神領となる〉に移住 神社も保安年間(1120~1123年)住吉三神を合祀し移転したと云う
八坂神社(小野市中番町)〈゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族の祭祀した神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
日本へそ公園駅から 西へ約6.8km 車12分程度
国道427号線で杉原川を渡って 県道296号を北上すると直ぐです
天目一神社(西脇市大木町)に参着
社号標には゛式内 天目一神社゛゛平野神社゛が併記されています
大正十二年(一九二三)新たな社殿が完成し復興されたのが現在の天目一神社です その時 鎮守である平野神社も平野山東山麓から移して合祀されています
鳥居の先には 直線の広い参道が伸びていますが これは大正期に整地されたのであろうと想います
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 長い渡り廊下のような幣殿が続き その奥に本殿が鎮座しています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 天目一神社について 所在は゛在所分明ならず゛〈所在は不明〉と記しています
ただし諸説があり 次の様に記しています
゛式社記に、糀屋村、〔今 稲荷と稱す〕゛〈現 稲荷神社(多可町中区糀屋)〉
゛一説 大木村にあり゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉
゛古跡便覽に、一説荒田神社是也、社地不知とあり゛〈現 天目一神社(的場 御田上)・加都良神社 境内社 天目一神社〉
゛播磨鑑に、的場村にありといへり゛〈現 荒田神社(的場)・天目一神社(的場 御田上)〉
【抜粋意訳】
天目一神社
天目一は 阿米乃麻比登都と訓べし
〇祭神明らか也
〇在所分明ならず
〇日本紀、〔神代下〕一書曰、天目一箇神爲に作金者、」
倭姫世記云、崇神天皇六年九月、就に於倭笠縫邑、〔中略〕令 齋部氏、率に石凝姥神裔 天目ー筒□裔二氏、更鋳造 鏡劔、以爲 護身御璽、式社記に、糀屋村、〔今 稲荷と稱す〕一説 大木村にあり、」
古跡便覽に、一説荒田神社是也、社地不知とあり、〔今按、荒田神社 父神なれば、相殿も祭り難し〕
播磨鑑に、的場村にありといへり、猶國人に尋ねて一決すべし、
〇神代巻 口决に、天目一箇神社、在に播磨國多可郡と云るは、唯此帳にあるを云るにて、何の證にも成がたし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 天目一神社について 所在は゛今 大木村にあり、゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉と記しています
【抜粋意訳】
天目一(アメノマヒトツノ)神社
今 大木村にあり、〔飾磨縣神社調〕
天津彦根命の子 天久斯麻比止者命を祭る〔新撰姓氏録、延喜式、神代巻口譯、〕此神亦 天麻比止都禰命と云ひ、又 天目一箇神と云ふ、〔新撰姓氏録、古語拾遺〕
上古天照大御神、天窟に隠り坐し時、雜刀斧及鐵鐸を作り仕奉りし神也、〔古語拾遺〕
凡 十一月八日 祭を行ふ〔飾磨縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 天目一神社について 所在は゛大木村 (多可郡日野村大字大木)゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉と記しています
【抜粋意訳】
天目一神社
祭神 天目一箇命
祭日 十一月八日
社格 村社所在 大木村 (多可郡日野村大字大木)
【原文参照】
天目一神社(西脇市大木町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
播磨国 50座(大7座・小43座)の式内社に戻る
播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について