大元神社(おおもとじんじゃ)は 宇佐神宮の奥宮といわれ 神代の昔に 三柱女神の比賣大神が降臨された神山「御許山(omoto san)」の9合目に鎮座します 山頂近くには3つの巨石を祀る神籬岩があるらしく 古代の磐座信仰が当初の形態ともいわれています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
大元神社(omoto shrine)
(おおもとじんじゃ)
【鎮座地 (location) 】
大分県杵築市山香町大字向野 御許山(omoto san)
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》比売大神(hime okami)
[多岐津姫命 市杵島姫命 多紀理姫命(宗像3女神)]
【格 式 (Rules of dignity) 】
・ 宇佐神宮の奥宮
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)論社
【創 建 (Beginning of history)】
宇佐の地に初めて八幡神が御示顕になられたのは、欽明天皇の御代に御許山(omoto san)(宇佐神宮 奥宮 大元神社鎮座)に顕われた
【由 緒 (history)】
摂社 大元(おおもと)神社
御祭神 八幡宇佐大神
宇佐神宮の奥宮大元神社は、豊後と豊前の平野を遥に眺める大元山(御許(おもと)山、また馬城(まき)の峯ともいう)に鎮座されている。
この大元山は、神代には比売大神が降臨になった神域であり、また八幡大神が小椋山に鎮座される前の霊行の場所であるから、大元神社といわれている。御祭神は御本宮と同じである。
山上には拝殿だけかあって本殿はなく、神山を神代とする神籬(ひもろぎ)の山である。宇佐神宮から南へ六キロ余の西馬城大字正覚寺大元山にあって、神宮境内から眺めるとい青々として美しい山である。
宇佐神宮資料より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・大元八坂神社《主》素戔嗚尊(susanowo no mikoto)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)豊前国 6座(大3座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)宇佐郡 3座(並大)
[名神大 大 小] 式内 名神大社
[旧 神社名 ] 比売神社(名神大)
[ふ り が な ](ひめ かみのやしろ)(みょうじんだい)
[How to read ](hime kamino yashiro)(myojindai)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
宇佐に伝わる 「2つの神奈備山」
「東の御許山(omoto san)」と「西の稲積山(inazumi san)」について
「東の御許山(omoto san)」
豪族「宇佐氏」は神奈備山を御許山(omoto san)として
磐座信仰の形態として祀られていたと云われます
そこに「辛嶋氏」(薦神社の神官家)が 比売大神の信仰を持ち込んだと考えられています 大元神社(omoto shrine)の信仰の原型になります
「西の稲積山(inazumi san)」
「辛嶋氏」は 西の神奈備山を稲積山(inazumi san)として
宇佐辛嶋郷に住み始め 辛嶋郷の周辺に稲積六神社(inazumiroku shrine) 乙咩神社(otome shrine) さらに酒井泉神社(sakaiizumi shrine) 郡瀬神社(goze shrine)の社殿を建築していきます
稲積六神社(inazumiroku shrine)の記事をご覧ください
稲積六神社(いなづみろくじんじゃ)は 原始八幡信仰に関わりの深い「辛島氏」が信仰の対象として 西暦706年に稲積山の山頂に祀られたのが始まりです 宇佐には 2つの神奈備山があり その一つ「西の稲積山(inazumi san)」を神体山として祭祀したものと伝わります
稲積六神社(宇佐市大字中字宮間)
「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」について
行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています
「行幸会(gyokoe)」の行幸順は 次のように伝わります
宇佐八幡→①田笛社→②鷹居社→③郡瀬社→④泉社→⑤乙咩社→⑥大根川社→(薦神社)→⑦妻垣社→⑧小山田社→宇佐八幡
かつては 宇佐八幡の境外8摂社とされていました
詳しくは「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」について の記事をご覧ください
行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています
「宇佐八幡(Usahachiman) 行幸会(gyokoe)」について
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大尾山からの参道があります
今回はこちらから
JR西屋敷駅から 狭い林道が山頂まで続いています 対向車があれば 離合は無理でしょう もし車ならば軽4WDの選択がベストでしょう
登山口から 約5.2kmです
麓には 登山口までは 何度か案内板があります
山中からは案内は無く ひたすら狭く険しい舗装が痛んだ大元参道(西屋敷ルート)を上ります
傷んだ参道整備の寄付案内板もあります
広場のような場所があり 駐車場のようです
ここからは 下乗となっています
しばらく歩くと境内に着きます
大元神社(omoto shrine)(宇佐神宮奥宮)に到着
境内は静まり返り 木々の揺らぎが感じられるほど とても神聖なことがわかります
玉垣に囲まれた御神木「大銀杏」は 台風で折れたらしく 数メートルで伐採されていますが 新たな息吹が芽生えています
その後方に 社殿が建ちます
拝殿にすすみます
「神は親なり 氏子は子なり 詣る社は面会所」との看板があり成程と感心してしまいます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 拝殿のみです 本殿はありませんので 背後の神奈備山を拝む 古代信仰の形態です
信仰対象となる神奈備山は 三女神が降臨したと伝わる御許山(山頂の磐座)です
拝殿の奥は禁足地となっていて 物理的にもロープが張られています
聖地には鳥居が建ち扁額には「奥宮」とあります
拝殿の左右にも 古く形の変わった石燈籠が並んでいます その奥も禁足地となっていて ロープが張られています
立入禁止の札がロープに掛かり「神域に立入ると罰せられます 宇佐神宮庁」とあります
ここで云う「罰せられる」とは間違いなく 神罰の事でしょう 間違っても立ち入らない事
玉垣の外から 奥の鳥居を見ると その先の聖地「磐座」へと続いていることが確信出来ます 両手を合わせ 深々と一礼をしながら後ろに下がります
拝殿を左右から拝します
拝殿の向かい側 御神木の横には 境内社が見えます
「大元八坂神社」の立て札と 鳥居が建っています
一礼して鳥居をくぐり抜けると こちらも別世界の御神氣です
細長くとても神秘的な参道を進めばなおさら御神氣は増していきます
小さいけれども御神威に満ちた本殿が建ちます お詣りをします
・大元八坂神社《主》素戔嗚尊(susanowo no mikoto)
境内に戻りると 直接こちらに上がってくる参道?石段があります
社前にて 振り返り一礼します
御神木を拝しながら境内を後にします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(nihon shoki)』神代 誓約(ukehi)段一書(三)に記される伝承
ここに記される「三柱の女神(宗像三女神)」が「宇佐嶋に天下った」との伝承があります
今は「北の海路に坐ます」となっていますので かつては違うとも解釈されていて 宇佐神宮では これを御許山(omoto san)(大元山)としています
意訳
「 そして「日の神」がお生になられた三柱の女神は 葦原中国(ashihara no nakatsukuni)の宇佐嶋(usa shima)に降らせられました
今 北の海路(玄界灘の海路)の中にお出でになられています
名づけて「道主貴(michinushi no muchi)」と言います
これは 筑紫の水沼君(chikushi no minuma no kimi)などが祀る神です 」
【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
神代の昔に 三柱女神の比賣大神が降臨された伝承を持つ もう一つの神社について
宇佐市安心院に鎮座する「三女神社」にも同様の伝説があります
ただし「三女神社」の由緒によりますと 御許山(omoto san)の三個の女陰を形どる巨石の組合せと対照的に「三女神社」は男根的存在を現している と非常に興味深い内容が記されています
「日本書紀神代巻に曰く 「即ち 日神が生みませる三女神を以って 葦原の中国の宇佐嶋に降り居さしむ云々・・」とあり 即ち宇佐嶋とは この地 宇佐郡安心院邑 当三柱山一帯とされ 安心院盆地を一望する聖地で ウサツヒコ・ウサツヒメは三女神を祖神とするが故に 全国唯一の三女神のお名前をもつ社である 水沼の君等がこれを祀る。爾来、一貫してこの地に鎮座して今日に至る、と伝えられている。
境内は 古代祭祀の面影を漂わせ幾多の史跡と伝説とを有し 特に三柱石始め多くの陰石を有し 宇佐神宮の元宮お許山(おもとやま)(大元山)の御神体となり三個の女陰を形どる巨石の組合せと対照的に男根的存在を現しているところに神秘さを藏している。」境内案内板より
詳しくは「三女神社」の記事をご覧ください
三女神社(さんみょじんじゃ)は 遠く神代に 天照大神(あまてらすおほみかみ)が この三女神を宇佐嶋に天降らせるときに 天安河原の石を手に取り「この石が落ち留まる所に鎮座せよ」といわれて お投げになられた石が 安心院(あじむ)の地に突き刺さった そのあとから三女神も降りてこられて三女神社が祀られた その刺さった石「三柱石」が境内にあります
三女神社(宇佐市安心院町)
宇佐神宮の奥宮といわれ 神代の昔に 三柱女神の比賣大神が降臨された神山「御許山(omoto san)」に鎮座します
大元神社(omoto shrine)(宇佐神宮奥宮)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
宇佐神宮の記事もご覧ください
宇佐神宮(うさじんぐう)は 全国4万社余りの八幡社の総本宮です 豊前国一之宮でもあります 神亀2年(725)創建以来 皇室から「伊勢神宮」につぐ「第二の宗廟(sobyo)」としての崇敬を受けています 信仰の地となってから約1300年 境内に足を踏み入れれば 日本の息吹が伝わります
宇佐神宮(宇佐市南宇佐)
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
「宇佐八幡(Usahachiman) 行幸会(gyokoe)」について に戻る
行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています
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豊前国(ぶぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 豊前国 6座(大3座・小3座)の神社です
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