実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

➂手間山 赤猪岩(あかいいわ)と貝女神(かいのめがみ)

大穴牟遅神は 蘇生 再生の力を持つ神として 描かれる

稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ) 八上比売(やがみひめ)は 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)が得ることになると予言し その通りにな

八十神(やそがみ)の恨みを買った 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)は 手間山(てまやま)の赤猪岩(あかいいわ)で殺されてしまいます

母神が 天に昇り神産巣日之命すがり請うと 女神(かいのめがみ)を遣わして 大穴牟遅神は生き返ります

・赤猪岩神社(南部町)《主》大國主神

『古事記』神話には
八十神(yasogami)達は怒っ 大穴牟遅神(onamuji no kami)を殺そうと思い 皆で話し合いました

そして伯耆国(hoki no kuni)の手間山(tema no yama)の麓(fumoto)に至って 言いました
「この山には 赤い猪(inoshishi)がいるらしい
我々が 赤い猪(inoshishi)を追い立てるので お前は 麓(fumoto)で待ち受けて捕らえなさい もし待ち受けて捕らえないなら 必ずお前を殺す」

猪(inoshishi)に似た大きな石に火をつけ 転がし落としましたので
麓(fumoto)で落ちてきた石を捕らえた時 すぐに焼け死んでしまいました」と記されます

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赤猪岩神社(西伯郡南部町寺内)

赤猪岩神社(あかいいわじんじゃ)は 『古事記(712)』に 八上比売(やがみひめ)を得た大穴牟遅神(おおなむじのかみ)が 八十神(やそがみ)〈兄弟〉の怒りを買い 伯岐国 手間山上から 猪に似た赤く焼けた大石を落とされ これを麓で捕らえたことにより焼死したと伝えます この赤猪岩が祀られています

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・〈出雲大社 境内摂社伊能知比売神社天前社
 《主》蚶貝比賣命 きさがいひめのみこと 蛤貝比賣命 うむがいひめのみこと

『古事記』神話には
神産巣日之命(かみむすひのみことは 貝比賣(きさがいひめ)と蛤貝比売(うむがいひめ)を大穴牟遅神(おほなむじのかみのもとに向かわせて を活かし(蘇生)ました」と記されます

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神魂伊能知比売神社(出雲大社 境内 天前社)【前編】

神魂伊能知比売神社(かみむすび いのちひめの かみのやしろ)〈出雲大社 境内〉は 通称名(天前社 amasaki no yashiro)と呼ばれます 大國主大神が お若い頃に多くの試練をお受けになられた時 大火傷を負われました この時 祖神の御令により 大神の治療看護に当たられた貝の女神を祀ります

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加賀神社松江市《主》支佐加比売命大国主神を蘇生した蚶貝比賣

『古事記』神話には
貝比賣(kisagai hime)は 貝殻を削り 粉末にして 蛤貝比売(umugi hime)は その粉をハマグリの出す汁と一緒に溶いて
母の乳汁のように塗りつけたところ 大穴牟遅神(onamuji no kami)は〉立派で壮健な男となって 元気に蘇りました」と記されます

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加賀神社(松江市島根町加賀)

加賀神社(かかじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の島根郡 神祇官社「加加社(かか)のやしろ」とされ ご祭神 支(枳)佐加比売命(きさかひめのみこと)は 『出雲国風土記』では 佐太大神の母神として その誕生の時に金(かね)の弓矢を射通して出来た加賀潜戸(かかくけど)に坐す 『古事記』には大国主大神を救済復活した蚶貝比売(きさかひめ)〈赤貝の霊神〉にあたるとされます

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法吉神社松江市《主》宇武加比比賣命大国主神を蘇生した蛤貝比賣

『古事記』神話には
貝比賣(kisagai hime)は 貝殻を削り 粉末にして 蛤貝比売(umugi hime)は その粉をハマグリの出す汁と一緒に溶いて
母の乳汁のように塗りつけたところ 大穴牟遅神(onamuji no kami)は〉立派で壮健な男となって 元気に蘇りました」と記されます

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法吉神社(松江市)

法吉神社(ほっきじんじゃ)は 大穴牟遅神を救われた 貝の女神「宇武加比比売命(うむかいひめのみこと)」が 法吉鳥(uguisu)に変身して この郷に飛んでこられ お静かに鎮座されましたので 法吉(hohoki)と呼ぶと伝わります

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『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

【抜粋意訳】

八上比売(yagami hime)は 八十神(yasogami)達に返答をしました
「わたくしは あなた方〈八十神〉の言うことを聞けません 大穴牟遅神(onamuji no kami)の嫁となります」

八十神(yasogami)達は怒っ 大穴牟遅神(onamuji no kami)を殺そうと思い 皆で話し合いました

そして伯耆国(hoki no kuni)の手間山(tema no yama)の麓(fumoto)に至って 言いました


「この山には 赤い猪(inoshishi)がいるらしい
我々が 赤い猪(inoshishi)を追い立てるので お前は 麓(fumoto)で待ち受けて捕らえなさい もし待ち受けて捕らえないなら 必ずお前を殺す」

猪(inoshishi)に似た大きな石に火をつけ 転がし落としましたので
麓(fumoto)で落ちてきた石を捕らえた時 すぐに焼け死んでしまいました

このことを知った 御祖命(mioya no mikoto)母神 刺国若比売(sashikuni wakahime) 嘆き天に上りまして 神産巣日之命(kamimusubi no mikoto)におすがり請いました時に

神産巣日之命(kamimusubi no mikoto)は 貝比賣(kisagai hime)と蛤貝比売(umugi hime)を大穴牟遅神(onamuji no kami)のもとに向かわせて を活かし(蘇生)ました

その時のご様子は
貝比賣(kisagai hime)は 貝殻を削り 粉末にして
蛤貝比売(umugi hime)は その粉をハマグリの出す汁と一緒に溶いて 
母の乳汁のように塗りつけたところ 大穴牟遅神(onamuji no kami)は〉立派で壮健な男となって 元気に蘇りました

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

(きのくに)大屋毘古神(おおやびこのかみ)に進む

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④木國(きのくに)大屋毘古神(おおやびこのかみ)

蘇生した大穴牟遅神(おほなむじのかみ)は 八十神(やそがみ)によって再び殺されます 又も 母神によって再び蘇生されて 木國(きのくに)〈和歌山県〉の大屋毘古神(おおやびこのかみ)の所へと逃されます
しかし 八十神は追い続け 矢を向けたので 大屋毘古神の助言で〈大穴牟遅神は〉木の股をくぐり 難を逃がれました

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”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 に戻る

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”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)『古事記』に登場する神話の舞台

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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