実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

⑱国譲り(くにゆずり)伊那佐之小浜(いなさのおはま)と多芸志之小浜(たぎしのおはま)

国譲りの舞台〈伊那佐の小浜〉から 出雲大社(いずものおほやしろ)〈多芸志之小浜(出雲大社のご鎮座地の古名)〉の建立

天照大神(あまてらすおほみかみ)の使いとして 天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)が 出雲国の 伊那佐の小浜(いなさのおはま)に降り立ち 大国主神(おおくにぬしのかみ)に 国譲り(くにゆずり)を迫ります

大国主神は 我が子 八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)に聞けと申されたので
使いの 天鳥船神は 御大御前(みほのさき)〈美保関〉に釣りに出かけられていた 事代主神を迎えに行き「伊那佐の小浜(いなさのおはま)」に連れ帰り問います
 事代主神は 天照大神へ国を献上することを承諾し 船を「青柴垣(あおふしがき)」に変化させ その中に籠ります

 大国主神(おおくにぬしのかみ)には もう一人の意見を云う子 建御名方神(たけみなかたのかみ)があり 使いの 建御雷神(たけみかづちのかみ)に対して力比べを挑みます しかし 建御雷神に敗れ敗走し 諏訪の海〈長野県 諏訪湖〉のほとりへ追い詰められ 国譲りを承諾します

これにより 大国主神は 二つの条件付きで国譲りを承諾します
条件 その一は 底津石根地底に太い柱を立て 空に高々とそびえる神殿を建てれば 遠い幽界に下が

条件 その二は 我が子の百八十神大勢の神 八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)が 神々の前に立てば 背く神は居ない
そうすれば 自らも国を譲ることを承諾する というもの

天神は 出雲国の多芸志の小浜たぎしのおはま出雲大社のご鎮座地の古名に 大国主神のための 神聖な宮殿を造りました

櫛八玉神くしやたまのかみが 料理人として 神聖な神饌を献上する様子がしるされています

因佐神社(出雲市)《主》建御雷神

『古事記』神話には
天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)は 出雲国の 伊那佐の小浜(いなさのおはま)に降り立ち 大国主神(おおくにぬしのかみ)に 国譲り(くにゆずり)を迫りました」と記されます

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因佐神社(出雲市)

因佐神社(いなさのかみのやしろ)は 『記紀神話』 "国譲り" の舞台 稲佐の浜に鎮座します 天津神が 大国主命との国譲りの交渉に 使者としてお遣わしになられた「鹿嶋の神」建御雷神(takemikazuchi no kami)が祀られています

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・大穴持伊那西波岐神社(出雲市大社町鷺浦)《主》稲背脛命

『古事記』神話の「天鳥船神(あめのとりふねのかみ)」と『日本書紀』の「稲背脛(いなせはぎ)」は同じ役割を果たしています
『日本書紀』には
「事代主神(ことしろぬしのかみ)は 出雲美保崎(みほのさき)に居て 釣りを楽しまれていた あるいは鳥を射ちに行っていた
そこで 熊野の諸手船(もろたぶね)に 使者として 稲背脛(いなせはぎ)を乗せて向かわせた そして 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の言葉を事代主神にお伝えし そのお返事を尋ねた」と記されます

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大穴持伊那西波岐神社(出雲市大社町鷺浦 )

大穴持伊那西波岐神社(おおなもちいなせはぎのかみのやしろ)は 美しい鷺浦に鎮座します 御祭神は『記紀神話』の国譲りの段で 天照皇大神の勅を奉じて 使者の役目をなされた「稲背脛命(inasehagi no mikoto)」が祀られています

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・美保神社(美保関町美保関)《主》三穂津姫命 事代主神

『古事記』神話には
ここに 大国主神おほくにぬしのかみは「私は返答を申し上げません 私の子 八重事代主神やえことしろぬしのかみがご返答をするでしょう しかし 今 鳥を狩ったり 魚を取ったり 美保の岬(みほのみさき)に出掛けていて まだ帰って来ておりません」と申し上げました
そこで 建御雷神たけみかづちのかみは 天鳥船神あめのとりふねのかみを遣わして 八重事代主神を呼び寄せて その意向をお尋ねになった時に 八重事代主神は 父の大国主神に語って「畏れ多いことでございます この葦原中國あしはらのなかつくには 天神(あまつかみ)の御子孫に奉りましょう」と言って
ただちに船を踏んで傾けて 天の逆手あまのさかてという柏手をして 船を青柴垣に変えさせ その中にご鎮座されました」と記されます

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美保神社(美保関町美保関)

美保神社(みほじんじゃ)は 特殊な形式の本殿〈大社造の二殿が連なった美保造または比翼大社造とよばれる〉には 本殿向かって・右側の御殿〈三穂津姫命〉・左側の御殿〈事代主神〉をお祀りしています 『出雲國風土記733 AD.』所載の島根郡 神祇官社「美保社(みほ)のやしろ」・『延喜式神名帳927 AD.』の「美保神社(みほのかみのやしろ)」とされます

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・諏訪大社 上社 前宮(茅野市)《主》建御名方神 八坂刀売神

『古事記』神話には
建御名方神が〈建御名方神を〉追つて 科野国の州羽の海〈長野 諏訪湖〉に追い詰めて 殺そうとしたとき 建御名方神(たけみなかたのかみ)の申されには「恐れ多いこと 私をお殺しなさいますな この諏訪のから 他の土地には出まい また 私の父 大國主の言葉に背きますまい この葦原中国あしはらなかつくに 天神(あまつかみ)の御子の仰せにまかせて献上致しましよう」と記されます

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諏訪大社 上社 前宮(茅野市)

諏訪大社 上社 前宮は 4つの諏訪大社の中でも 諏訪の祭祀の発祥地とされます 古来より諏訪明神の住まう所で 現人神とされた諏方の大祝(オオホフリ)の居舘があり 上社の祭祀の中心地でした 神長官(ジンチョウカン)の守矢氏が 神秘にして原始的なミシャグジ神を降ろして 諏訪明神の重要な祭祀・神事を取り行った聖地とされています

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湊社(出雲市)《主》櫛八玉神(水戸神の孫)〈出雲大社の境外摂社〉

『古事記』神話には
大国主神(おほくにぬしのかみ)のための神聖な宮殿を造りました その時
水戸神(みとのかみ)の孫 櫛八玉神(くしやたまのかみ)を 料理人として 神聖な神饌を献上する時に 

祝詞を唱えて 櫛八玉神が 鵜(う)の姿となって 海底にもぐり 海底の粘土を咥えてきて それで 神聖な平たい土器(皿)をつくり 海草の茎を刈り取って 火を切り出す燧臼(ひきりうす)を作り 

また 別の海藻の茎で 火をきりだす燧杵(ひきりきり)を作り 神聖な火をきりだして言いました「私がきりだした火は 高天原の神産巣日御祖の命(かみむすひのみおやのみことの立派な宮殿の煤(すす)が 長々と垂れ下がるまで 焚き上げ 大地の下は 地底の岩盤に届くまで焚き固まらせて 
長い長い楮(こおぞ)の木の皮で作った 釣縄を(延縄漁のように)海中に打ち延ばして 海女(あま)が釣り上げた 口が大きく尾鰭も大きい立派な鱸(すずき)をざわざわと賑やかに引き寄せて上げて 鱸(すずき)を載せる台が たわむくらいに沢山盛って 神聖な魚の料理を奉ります」と申し上げました」と記されます

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湊社(出雲市)

湊社(みなとのやしろ)は 『国譲り神話』で 国を譲り出雲大社に鎮まろうとする「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」に 神饌を捧げる「膳夫(かしわで)の神」として登場する 「櫛八玉神(くしやたまのかみ)」を祀ります

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出雲大社(出雲市)《主》大国主大神

『古事記』神話には「大國主に問われた「あなたの子 事代主神・建御名方神 お二柱の神 天神の御子の仰せに従うと申しました あなたの心はどうですか」

そこでお答え申しますには
私の子どもの二柱の神の申し上げた通りに 私も誓ってはそむきません この葦原中国(ashihara nakatsukuni)は 仰せの通りに献上いたします

ただし 私の住むところは 天つ神の御子が 天つ日嗣(amatsu hitsugi)を継がれて 天照大御神の御心のままに納められている立派な神殿のように 

地底の岩盤に届くほどに太い宮柱を立てて 高天原に届くように千木を高々とつけて 神殿を建てるならば 

多くの曲がり角を 曲がり曲って 私は遠い幽界(yukai)に隠れておりましょう

また 私の子どもの「百八十神(yaso gami)たちは 八重事代主神「(yae kotoshironushi no kami)が 先頭に立てば また しんがりとなって お仕えしたならば 背く神は 一神も居ないでしょう」と申し上げました

このように大国主神(okuninushi no kami)が申し上げて

「出雲国の多芸志の小浜(tagishi no obama)」(出雲大社のご鎮座地の古名)に大国主神(okuninushi no kami)のための神聖な宮殿を造りました」と記されます

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出雲大社(出雲市)【前編】

出雲大社(いずも おおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(あまつかみ)」が 天日隅宮(あめのひすみのみや)を献上されたことに始まるとされています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)『古事記』に登場する神話の舞台  (hai)」(90度のお辞儀)

 

『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

【抜粋意訳】

そこで天照大御神(amaterasu omikami)は 天鳥船神(ameno torifune no kami)建御雷神(takemikazuchi no kami)のお供に付けて 葦原中國(ashihara no nakatsukuni)に遣わされました

このように建御雷神(takemikazuchi no kami)天鳥船神(ameno torifune no kami)の二柱の神は 出雲の伊那佐の小濱(いなさのこはま)に降り立ちまして

建御雷神(takemikazuchi no kami)は 十拳剣(totsuka no tsurugi)を抜いて 剣先を上にして 柄を下にして 逆にして波頭に刺し立てて その剣の刃の先上にあぐらをかいて座り 葦原中國(ashihara no nakatsukuni)大国主大神(okuninushi no okami)に尋ねて

建御雷神(takemikazuchi no kami)は 私心を全く差し挟まずに
天照大御神(amaterasu omikami)高木神(takagi no kami)の仰せにより あなたの意向をお聞きすべく 私は使者としてお遣わしになりました
あなたが 神領としている葦原中國(ashihara no nakatsukuni)は 我が子孫の統治されるべき国であると 従って あなたのお考えはどうなのか お聞きしたい」と仰せになりました

ここに 大国主大神(okuninushi no okami)
「私は返答を申し上げません 私の子 八重事代主神
(yaekotoshironushi no kami)がご返答をするでしょう
しかし 今 鳥を狩ったり 魚を取ったり 美保の岬に出掛けていて まだ帰って来ておりません」と申し上げました

そこで 建御雷神(takemikazuchi no kami)は 天鳥船神(ameno torifune no kami)を遣わして
八重事代主神(yaekotoshironushi no kami)を呼び寄せて その意向をお尋ねになった

その時に 八重事代主神(yaekotoshironushi no kami)は 父の大国主大神(okuninushi no okami)に語って
「畏れ多いことでございます この葦原中國(ashihara no nakatsukuni)は 天津神の御子孫に奉りましょう」と言って
ただちに船を踏んで傾けて 天の逆手(amano sakate)という柏手をして 船を青柴垣に変えさせ その中にご鎮座されました

そこで 大國主にお尋ねになつた「今 あなたの子の事代主神 かように申された 他に申すべき子がありますか」

そこで「我が子に 建御名方神(takeminakata no kami)居ます これ以外にはございません」と申され

建御名方神が 千引の石千人が引いてやっと動く大岩を持って来て
「誰だ わしの國に来て 忍び忍び ひそひそと話をしているのは それならば力くらべをしよう わしが先にその手を掴つかむぞ」と言いました

そこで〈建御雷神手を取ると 立っている氷のよう〈つららのよう〉であり 劒刃のようでありました そこで〈建御名方神は〉恐れて引き下がります

今度は〈建御雷神が〉建御名方神の手を取ろうと言って これを取ると 若いを掴むよう握り潰し投げうたれた〈建御名方神は〉すぐに逃げ去りました
それを追つて 科野国の州羽の海〈長野 諏訪湖〉に追い詰めて 殺そうとしたとき

建御名方神の申されには
「恐れ多いこと
 私をお殺しなさいますな この諏訪のから他の土地には出まい また わたくしの父 大國主の言葉に背きますまい この葦原中国(ashihara nakatsukuni) 神の御子の仰せにまかせて献上致しましよう」

そこで 出雲に還って来て 大國主に問われた「あなたの子 事代主神・建御名方神 お二柱の神 天神の御子の仰せに従うと申しました あなたの心はどうですか」

そこでお答え申しますには
私の子どもの二柱の神の申し上げた通りに 私も誓ってはそむきません この葦原中国(ashihara nakatsukuni)は 仰せの通りに献上いたします

ただし
私の住むところは 天つ神の御子が 天つ日嗣
(amatsu hitsugi)を継がれて 天照大御神の御心のままに納められている立派な神殿のように
地底の岩盤に届くほどに 太い宮柱を立てて 高天原に届くように千木を高々とつけて 神殿を建てるならば
多くの曲がり角を 曲がり曲って 私は遠い幽界(yukai)に隠れておりましょう

また 私の子どもの「百八十神(yaso gami)たちは 八重事代主神「(yae kotoshironushi no kami)が 先頭に立てば また しんがりとなって お仕えしたならば 背く神は 一神も居ないでしょう」と申し上げました

このように大国主神(okuninushi no kami)が申し上げると
「出雲国の多芸志の小浜(tagishi no obama)」(出雲大社のご鎮座地の古名)に 大国主神(okuninushi no kami)のための神聖な宮殿を造りました

その時 水戸神(minato no kami)の孫 櫛八玉神(kushiyatama no kami)を 料理人として 神聖な神饌を献上する時に  

祝詞を唱えて 櫛八玉神(kushiyatama no kami)が 鵜(u)の姿となって 海底にもぐり 海底の粘土を咥えてきて
それで 神聖な平たい土器(皿)をつくり 海草の茎を刈り取って 火を切り出す燧臼(hikiri usu)を作り 

また 別の海藻の茎で 火をきりだす燧杵(hikiri kiri)を作り 神聖な火をきりだして言いました
「私がきりだした火は 高天原の神産巣日御祖の命(kamimusuhi no mioya no mikotoの立派な宮殿の煤(susu)が 長々と垂れ下がるまで 焚き上げ
大地の下は 地底の岩盤に届くまで焚き固まらせて 
長い長い楮(kozo)の木の皮で作った 釣縄を(延縄漁のように)海中に打ち延ばして 
海女(ama)が釣り上げた 口が大きく尾鰭も大きい立派な鱸(suzuki)をざわざわと賑やかに引き寄せて上げて
(suzuki)を載せる台が たわむくらいに沢山盛って 神聖な魚の料理を奉ります」と申し上げました

そこで 建御雷神(takemikazuchi no kami)は 高天原に帰り 天津神のもとに参上し 葦原中国を平定するに至る経緯をご報告申し上げました

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

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