実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

⑭豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)

天照大御神は この 葦原中国(あしはらのなかつくに)は 我が子が 治める所の国であると定めた

神産巣日神の命令により 大国主神と小名毘古那の二柱の神は 並んで この国〈日本〉を作り堅めた時
天照大御神(あまてらすおほみかみ)は この 葦原中国(あしはらのなかつくに)は 我が子 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が 治める所の国であると定めた と命を下された

天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が 天浮橋(あまのうきはし)に立たれて 下界を眺めると「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)は ひどく騒がしく有るな」と言われた

そこで 神々が集い 思金神(おもいかねのかみ)が考え 天菩比神(あめのほひのかみ)を 遣(つかわ)しましたが 大国主神(おほくにぬしのかみ)に 媚(こび)て 三年経っても返事もありませんでした

英彦山神宮福岡県田川郡添田町大字英彦山
《主》正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)

御由緒書きには
英彦山は 古来から神の山として信仰されていた霊山で 御祭神が天照大神(伊勢神宮)の御子 天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました とあり

一つの伝承には
英彦山は 祭神 忍骨命天忍穂耳命の降臨された地〈天下りした山〉で 山上に一祠が建てられたのが 神社の起源と伝わる

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英彦山神宮(福岡県 英彦山)〈奉幣殿・下津宮〉

英彦山神宮(ひこさんじんぐう)は 社伝によれば 鎮座する英彦山は 御祭神が天照大神の御子 天忍穂〈根〉耳命 故に「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれたする この縁起から『延喜式神名帳927 AD.』所載の豊前国 田川郡 忍骨命神社(をしほねのみことの かみのやしろ)の論社ともされます

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天穗日命神社鳥取市福井《主》天穗日命 

『古事記』神話には
思金神(おもいかねのかみ)と八百万神(やおよろずのかみ)は 話し言い合い
「天菩比神(あめのほひのかみ)を 遣(つかわ)すのがよい」

そこで 天菩比神(あめのほひのかみ)は 遣(つかわ)されましたが すぐに大国主神(おほくにぬしのかみに 媚付(こびへつらい)三年経っても御返事申し上げませんでした」と記されます

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天穂日命神社(鳥取市福井)

天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)は 古代 稲葉国造(いなばのくにのみやつこ)の氏神として天穂日命が祀られたものであったと伝わります 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載の因幡國 高草郡 天穗日命神社の論社です

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出雲国造家から見た 天穂日命(あめのほひのみこと)について

『記紀神話』〈大和朝廷〉では 天菩比神(あめのほひのかみ)は 国土平定の第一の使者に選ばれ天上から派遣されるが 葦原中国で大国主神に媚付(こびへつらい)三年経っても復命しなかった 背信者として語られます

一方 出雲国造〈現在まで出雲大社に奉仕する氏〉は 御祖神(みおやのかみ)として 天穂日命(あめのほひのみこと)を祀っていて 正反対の立場にあります

『出雲国造神賀詞いずものくにのみやつこのかんよごとには
天穂日命(あめのほひのみこと)が 天神の使者となり 地上の様子を視察し 子の天夷鳥命と布都怒志命を派遣し 荒ぶる神々を鎮圧し 大国主神を媚び鎮め神意に沿った祭りを行い の御心を鎮め国譲りを誓わせた 使命を遂行した平定の功労者として語られます

出雲国造(いつものくにのみやつこ)とは

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出雲國造(いつものくにのみやつこ)〈天皇家と同じの始祖を持つ神代より続く家柄〉

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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出雲造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)について

『延喜式』〈延長5年(927『出雲国造神賀詞いずものくにのみやつこのかんよごと』に
高天原の神高御魂命(たかみむすひのみこと) 皇御孫命(すめみまのみこと)〈瓊瓊杵尊 天下の大八嶋国の国譲りを仰せになられました時
出雲臣達の遠祖 天穂日命(あめのほひのみこと)を国土の形成を覗う為にお遣わしになられました 時に 幾重にも重なった雲を押し分けて 天を飛翔し 国土を見廻られて 復命して申し上げられました事は「豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに) 昼は 猛烈な南風が吹き荒れるように荒ぶる神々が騒ぎ 夜は 炎が燃えさかるように光り輝く恐ろしい神々がはびこっております 岩も樹木も青い水の泡までもが 物言い騒ぐ荒れ狂う国でございます
然れども これらを鎮定服従させて 皇御孫命には 安穏平和な国として御統治になられますようにして差し上げます」と申されて
御自身の御子 天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)に布都怒志命(ふつぬしのみこと)を副へて 天降しお遣わしになられまして 荒れ狂う神々を悉く平定され 国土を開拓経営なされました大穴持大神を 媚ひ鎮めて神意に沿った祭りを行い の御心を鎮め大八嶋国の統治の大権を 譲られる事を誓わせになられました」と記されます

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出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)について

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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天穗日命社〈出雲國造家鎮守社〉(出雲市大社町杵築東《主》天穗日命 は 千家家 北島家にあり

・出雲〈千家〉國造家鎮守社(大社町杵築東)

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出雲〈千家〉國造家鎮守社(大社町杵築東)

出雲〈千家〉國造家鎮守社(こくぞうけちんじゅのやしろ)〈天穂日命社 天夷鳥命社・荒神社 稲荷社〉は 出雲大社の神楽殿の後方に 出雲大社宮司家〈千家家〉の祖先神などをお祀りした鎮守社が 並んで鎮座されます

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・出雲〈北島〉國造家鎮守社(大社町杵築東)

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出雲〈北島〉國造家鎮守社(大社町杵築東)

出雲〈北島〉國造家鎮守 御三社(こくぞうけちんじゅ ごさんしゃ)は 出雲大社の東隣 出雲大社宮司〈北島〉家の祖先神をお祀りした鎮守社として〈天穂日命社・荒神社 稲荷社〉が 並んで鎮座されています 

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氏社(北)出雲大社 境内 《主》天穗日命 

出雲大社の境内「北側のお社」の御祭神は 天穂日命(ameno hohi no mikoto)をお祀りしています 

天照大御神(amaterasu omikami)の御子神で 大御神から 出雲大社(izumo ooyashiro)の祭祀を司るように命じられます 
以来 その神裔の「出雲国造千家家」が 現在に至るまで「大国主大神(okuninushi no okami)」にお仕えしています
 出雲大社(出雲市)【後編】記載

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出雲大社(出雲市)【後編】

出雲大社(いずものおおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(okuninushi no okami)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(amatsu kami)」が 天日隅宮(amenohisumi no miya)を献上されたことに始まるとされています

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『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

【抜粋意訳】

天照大御神(あまてらすおほみかみ)の命により
「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)は 我が御子 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が 治める所である」と仰せになり 天からお降(くだ)しになりました

ここに 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)は 天浮橋(あまのうきはし)に立たれて
「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)は ひどく騒がしく有るな」と言われました

そして 更に還(かえ)って 天照大御神(あまてらすおほみかみ)に申し上げました

高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と天照大御神(あまてらすおほみかみ)は 天安河之河原(あめのやすのかはら)に 八百万神(やおよろずのかみ)を集(つど)い 思金神(おもいかねのかみ)に考えさせ 仰せになられた

「この 葦原中国(あしはらのなかつくに)は 我が子 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が 治める所の国であると定めた しかし この国は 国神等(くにかみども)が 乱暴にのさばり どの神を遣(つかわ)して 平定すべきか」と申されました

思金神(おもいかねのかみ)と八百万神(やおよろずのかみ)は 話し言い合い
「天菩比神(あめのほひのかみ)を 遣(つかわ)すのがよい」

そこで 天菩比神(あめのほひのかみ)は 遣(つかわ)されましたが すぐに大国主神(おほくにぬしのかみに 媚付(こびへつらい)三年経っても御返事申し上げませんでした

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

天若日子(あめのわかひこ)・雉(きじ)の鳴女(なきめ) に進む

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⑮天若日子(あめのわかひこ)・雉鳴女(きじのなきめ)・天佐具売(あめのさぐめ)

〈葦原中国(あしはらのなかつくに)への使者として 天菩比神(あめのほひのかみ)を 遣(つかわ)しましたが すぐに大国主神(おほくにぬしのかみ)に 媚付(こびへつらい)三年経っても返事をしませんでした〉新たに 天若日子(あめのわかひこ)を 遣(つかわ)せましたが 大国主神の娘 下照比売(したてるひめ)を娶り その国を獲(え)ようと企(たくら)み これも八年経っても 返事することもありませんでしたので 雉(きじ)の鳴女(なきめ)を使いとして 差し向けます しかし 天若日子は これを矢で射殺してしまい 天からの返し矢によって命を落とします

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”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 に戻る

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